喪主のまごころが感じられる葬儀

今日、近隣のお寺でお檀家さんの葬儀があり、手伝いに行ってきました。
地域や宗派によって大きな差がありますが、当地では通常の葬儀は僧侶1~2人でつとめることがほとんどで、特に盛大に送る場合で僧侶3~4人です。
特殊な例として、温泉ホテルの社長や大会社の創始者などで僧侶8人という大法要がごくまれにあるくらいです。

今日のお手伝いは、僧侶5人による荘厳なる法要でした。
喪主も故人もごく普通の方で、特別な職業ではありません。
また会葬者もそれほど多くなく、規模で言えば小さな葬儀です。
慣例から言えば、そんなにたくさん僧侶を呼ぶ必要が無いケースですが、どうしても僧侶5名で読経して欲しい、との喪主たっての希望でした。

つまり、喪主が亡きお母さんに対してとても深い気持ちを持っており、会葬者が多い少ないの都合とは関係なく、できる限り立派な式で見送ってあげたいというまごころから和尚の数を増やして欲しいと申し出たのです。
喪主の挨拶は、いわゆる型どおりの無味乾燥な社交辞令の挨拶ではなく、喪主が思ったことを赤裸々に述べた感動的なもので、亡きお母さんに対する愛と感謝の気持ちがあふれ出ていました。

合理主義の時代です。
世の中は「お葬式なんかやっても意味がない」「和尚の読経なんか必要無い」「葬式はなるべく簡素にお金をかけずこじんまりと」という傾向です。

葬儀不要論が出るのは和尚の側にもいくばくかの責任があるでしょう。
葬儀の大切さについて説くべき立場の私ですが、最終的にそうした価値感についてどう思いどう判断するかは個人の自由です。
和尚を呼ばずに葬式を済ますことが悪く、和尚をたくさん呼ぶのが良いと言いたいわけではありません。

では何が言いたいかと言えば、少なくとも今日の喪主さんは、自分が大好きだったお母さんの最後のお別れで、大勢の和尚さんにありがたい読経を挙げてもらい、自分にできる限りの方法で精一杯見送ることができて大変満足そうに感謝の合掌を捧げておられた、これなのです。
今日の喪主さんだって、高齢の母親をずっと介護する中で、どこかで現在の「葬儀不要論」の風潮を知っていたはずです。しかしあえてその流れに逆らって、大勢の僧侶に依頼して荘厳な葬儀を行うことに決めたのです。和尚をたくさん招けばお布施もそれなりに必要です。長い介護の末の葬儀ですから、推測ですが金銭的にも決して余裕があるわけではないでしょう。しかしそこで無理をしてでもできる限りのことをしてあげたかった、清らかな心としかいいようがありません。
その価値感はその人のもので、他人がそれを否定したり嘲ったりすることはできません。
赤の他人のコメンテーターが軽々しく無責任に発言できるものではないのです。

かけがえのない大切な人への想いがあふれた葬儀に、胸がいっぱいになりながら読経させていただきました。
見栄や世間体ではなく、喪主自身が納得できる葬儀、それは裏返せば故人へのよき供養になることは間違いないでしょう。

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