手打ちソバ その3

手打ちソバがうまくいくかどうかは、水と粉を混ぜるときにうまくいくかどうかで成否がほとんど決まります。失敗しやすいのは、水が粉の一部分にだけまざってしまい、水気が足りない部分と、湿っぽすぎる部分とに分かれてしまうケースです。そうならないように、水を二回に分け、まず1回目は全体に水気を含ませ、次はこねながら(もみあげるようにして)一気に混ぜていくとうまくいきます。 水を入れ終わったら、こね鉢の中の粒を一つに合わせるようにして、大きな固まりを作ります。

そして両手で固まりをつかみ、片側を奥に押し、逆側を手前に引き寄せ、同時に押しつぶすようにしてひねり、ちぎれたらまた一つに合わせ、それを15回くらい手早く繰り返します。(下の写真)


手打ちソバ その3

今度は固まりを両手のひらで上から押して体重をかけます。つぶれて平たくなったら包み込むようにして同じく4、5回繰り返します。最後に包み込んだ閉じ口を先にして、こね鉢のすみの傾斜の部分を利用して転がしながら山形に調えます。その際、閉じ口(割れ目)がうまくつながるようにして、なめらかな表面にします。うまくいったら山を立てて、とがった方を上にします。


手打ちソバ その3

それをこね鉢をうまく回転させながら手のひらでつぶして、丸いペッタンコの形にします。厚みは2~3センチくらいです。


手打ちソバ その3

そこまでいったらソバの固まりをこね鉢からのし台に移します。のし台にはあらかじめ打ち粉をまぶしておき、ソバの固まりが張り付かないようにします。私の場合は、のし台に移したら上に軽くラップをかけて乾燥しないようにし、その間にこね鉢と自分の手をよく洗います。

次回はいよいよのし→切りの部分です。
ところで、ソバは縄文時代の頃に日本に伝えられたといわれます。荒れ地でも育つ強い作物として重宝されましたが、知らない人は驚くかもしれませんが、いわゆる現在の長い麺状のソバが作られるようになったのは江戸時代中期のことなのです。それまでは、古くはソバのお粥とか焼きソバ、臼による製粉が開発された後はソバがきやソバ餅、ソバ煎餅、蒸しソバなどが食されていました。江戸中期に、細長い麺状に加工して食べる方法が創作されると、それまでの食べ方と区別するために、「ソバ切り」と呼ばれるようになりました。

つまり、いま私たちは「ソバ切り」を指して一般に「ソバ」と呼んでいるのです。

麺状に加工するのは手間がかかり、また難しいことから、「ソバ切り」は珍しかったのですが、今では逆に「ソバがき」や「ソバ煎餅」の方が珍しくなったため、「ソバ」といえば「麺状のソバ、つまりソバ切り」のことをいうようになったのです。

ちなみに、江戸中期に「ソバ切り」を開発したのは誰なのか、という起源にはさまざまな説があり、山梨が発祥の地、いや長野である、とそれぞれに典拠となる文献史料があって元祖を主張しています。または朝鮮半島から渡来した僧がソバ切りの技術を伝えたという説もあります。

どちらにせよ、ソバ切りが開発されたのは、そのままだと麺状に加工する際にブツブツとちぎれやすいソバをこねる際、小麦粉をつなぎにするというアイデアが発見されたことによるといわれます。当時ソバは米よりも安く、飢饉の際の食料とされていましたが、それよりも高価な小麦粉をつなぎにするというアイデアは、当時としては画期的だったと推測できます。

そののち、享保年間になると長いもとか豆腐、玉子、ご飯粒など、色々な食材がつなぎとして試され、特に江戸でソバが大流行したといわれています。

関西地方では近隣で良い小麦粉がとれたため、うどんやそうめん文化が栄え、逆に関東では長野、山梨、群馬などでソバが栽培されたことからか、ソバ文化が発展しました。特に江戸時代に文化の中心となった江戸でソバ屋の人気が非常に高まり、江戸っ子といえば寿司とソバというくらい定番となりました。(そのためソバといえばこれこれこうでなければいけない、というような江戸っ子の粋なこだわりや作法が多く生まれました)

なお江戸以外でも全国でソバの人気は上がり、変わったところではソバの実の甘皮部分を使った黒い「出雲ソバ」、大きなへぎ盆に載せ、何人かで分けて食べる新潟の「へぎソバ」、岩手の「わんこソバ」、大豆をつなぎにした青森の「津軽ソバ」などソバ好きなら一度は食べたい名物ソバが各地に生まれました。

ちなみに私が好きなのは永平寺のあたりでもよく食されている「越前ソバ」。冷たい汁にたっぷりの辛み大根のおろしと削ったかつお節を載せた一品です。

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