料理写真を撮るようになったきっかけ その2

(前回の続きです~)

典座老師は私の顔をしばらく見たあと、少し間を空けて「お前さんはそんなことに気を回さんでええ。今は料理を覚えることに専念せい。」とおっしゃいました。やはり料理写真を撮影するお許しは出なかったのです。

まあ、料理の技も心もまだまだ未熟なことは自分が一番わかっていましたから、確かにそんなことを考えている暇があれば、料理の一つでも覚える方が先でした。
その後しばらくはカメラのことを忘れ、修行に専念しておりました。

そんなある日、典座老師の部屋に呼ばれました。
「お前さん、カメラは持ってるのか?」
突然のお言葉にちょっととまどいながらも
「は、はい。学生時代に使っていた安物のカメラが田舎の寺に置いてあります」
と答えると、
「じゃあそれを送ってもらえ。腕前はしらんが、わしの責任でしばらくの間特別に許可するから、やってみい」
とおっしゃったのです。

おそらく、その時の私の顔には「なんでまた一度ダメといった撮影を許してくれたんだろう?」と大きな字で書いてあったと思います。そんな不思議そうな顔をしていた私を見て、典座老師は続けました。

「いいか、お前がいうように、作った献立を記録しておけば、確かに後の者は便利じゃろう。しかし、わしらのころは、写真だの今はやりのレシピだのいうものなぞなかった。そんなもんに頼らずとも、老師や先輩が作っているのを真剣勝負で覚えようという意気込みで身につけたもんじゃ。どうもな、写真だのレシピだのそういう安易なものに頼ると、そういう真剣さが薄くなってしまうような気がするんじゃよ。

それにな、料理というのはせっかく作っても食べたらなくなってしまうじゃろ。後には残らん。だからこそ、その時その時かぎりのものだと思って、一期一会の気持ちで精一杯作るんじゃ。写真に残すとなあ、そういうその場限りの真剣勝負じゃあなくなってしまうような気がするんじゃ。
消えてなくなるはずのものを、残したいなんていう我執を持ってはいかんのだ」

「しかしなあ、わしは長い間そう考えてきたんじゃが、おまえさんの申し出を聞いてから、ここ何日か考えてみた。今は時代も変わってきたでのう。声明(しょうみょう・法要でお唱えする、特殊な節回しのついた音楽的な句偈)が録音されて、CDとやらを聞いて練習する時代じゃ。料理もだんだんそうなっていくじゃろ。ワシはいまさらレシピなんぞ作れんが、おまえさんのような若いのがそういうのを覚えていくのも大切なのかもしれん、と思ってな。

実はわしも精進料理の講演なぞを頼まれて外にでかけると、参加している若者にレシピはないのか、と良くいわれるんじゃ。いずれ、修行を終えて自分の寺に戻って檀家さんを相手にするときには、昔のような堅苦しさばかりじゃあいかんのかもしれん。
もし、お前さんが楽をしようとして写真を撮りたいなんて言ってるのならば論外じゃが、ここ何日か見ていると、どうやら前向きな考えで言っているようだし、おまえのやる気に免じて目をつぶる。とりあえずやってみい」

畳に頭がつくほど下げて聞いていた私ですが、典座老師の慈悲深きお言葉に、返事をしようにも涙が溢れて言葉が出ませんでした。

その後看糧さんのお部屋に行き、ことの次第を報告しました。看糧さんは何も言いませんでしたが、おそらく典座老師と同じお考えだったに違いありません。ただ一言、「ここは修行道場なんだから、調理のじゃまにならないように、場の空気を読んで控えめに撮れよ」
とおっしゃいました。

こうして試験的に?調理写真の撮影が許されたのです。
さて、どんなおいしそうな写真を撮ったのか、いよいよ次回そのお宝写真をお見せします。(続く)

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