忘れられぬ宮崎不老閣猊下のお言葉

宮崎禅師がご遷化(せんげ)されて3日が過ぎました。昨日当寺では檀信徒の代表が集まり、本堂にて法要を営み、宮崎禅師の品位増崇を祈りました。

さて、今から十年以上も前のことですが、私が永平寺で修行中、調理係の次に配属されたのは宮崎禅師の身の回りの世話をさせていただく係でした。
禅師さまは、永平寺の中で一番奥にある「不老閣(ふろうかく)」という建物にお住まいでした。ちなみに、わが国では高貴なお方をお呼びする際に、敬意を込めてそのお住まいになっている建物の名前でお呼びする慣習がありますが、そこから永平寺の貫首を「不老閣猊下(ふろうかくげいか)」と尊称します。

禅宗では、偉大なる指導者のお近くに四六時中随侍し、老師の一挙手一投足から滲み出る境涯を学び取るのも尊い修行とされています。老師のお供をしたり、身の回りの世話をする配役を総じて「行者(あんじゃ)」と呼びますが、禅師さまの行者は「不老閣」の「行者」、略して「閣行(かくあん)」と呼ばれます。

今まで一日中包丁を握り、大根やら芋やらに向かって修行していた私が「閣行」に配属され、永平寺の最高指導者である宮崎禅師にお仕えすることになったわけです。
まったく異なる役どころに、毎日緊張の連続でした。もし何か失礼があったら大変ですから、それはもうかなりのプレッシャーでした。

ある日、廊下で他の配役の修行仲間と会った際、雑談の中で
「いやー、閣行は緊張の連続で、最近胃が痛いよ」
と半ば愚痴に近い軽口を言ってしまったことがあります。
するとその仲間は、急にまじめな顔になり、こういいました。
「つらいかもしれないけどさ、宮崎禅師のおそばで修行できるなんて、
すごくありがたいことだろう。みんなが経験できる係じゃないんだからさ、
そんな泣き言をいわずに、せっかくのご縁だと思ってしっかりやれよ」

私はその時、毎日の緊張から見失っていたことにやっと気づいたのです。
それ以来、相変わらず緊張の日々は続きましたが、そんな中でも、今まで以上に禅師さまのお言葉や所作に注意を注ぎ、自ら学ぼうとする姿勢でつとめるようにしました。
短い間でしたが、偉大なる不老閣猊下のお姿を間近で感じ、学ぶことができたのは、何ごとにも替えられぬ尊い経験でした。

宮崎不老閣猊下 永平寺東京別院にて

閣行時代の思い出はたくさんあり、いずれお話する機会もあると思いますが、今日はその中から一つだけお話します。
当時宮崎禅師はお休みの前にはお部屋の近くにあるお風呂で御入浴されていました。夏期の永平寺はものすごい湿気で、その日のうちにお風呂を掃除して水気を払わないと浴室が傷んでしまいます。そのため、当時は夜のうちにお風呂を掃除することになっていました。

ある暑い夜、一生懸命になってお風呂掃除を終えた私の作務衣は、汗と湯気でびっしょりになってしまいました。このぬれた上着のままで廊下を通るとしずくが垂れてしまうなあ、と思い、びしょ濡れのシャツと上着を脱ぎ、上半身はだかの状態で急いで自分の荷物置き場まで行こうと思いお風呂場を出ると、なんと廊下には禅師さまがおられるではありませんか。
どうやら、お風呂場の廊下の奥にあるお手洗いに向かおうとしていたご様子。さぞかし禅師さまも、上半身はだかの私を見て驚いたことでしょう。

この事態にどうしていいかわからず固まっている私に、禅師さまは
「誰かが見ていても、いなくても、いつでもお行儀良くせんといかん。」
と優しい声でおっしゃって、杖をついてお手洗いの方に歩まれました。

文章力のない私にはこれ以上の表現はできませんが、とにかく言葉を超えた、全身から発せられるオーラのような重みとともに、その含蓄ある言葉は私の心の深いところまでストレートに届きました。今でも、あのときのお言葉を想い出すと身が引き締まります。

その後、私が料理長をつとめた永平寺東京別院は、宮崎禅師が住職を務めておりました。その関係で、禅師さまのお食事をご用意させていただく機会も幾度となくあり、誠に尊い経験と修行をさせていただいたことに深く感謝しております。
特に、拙著『永平寺の心と精進料理』刊行に際しては、巻頭にありがたきお言葉を頂戴するご縁にめぐまれたことは、私にとって生涯わすれることができない想い出です。

また、禅師様の行者である「閣行」をつとめた修行僧たちのいわゆるOB会というのが組織されておりまして、私もその末席に名を加えていただいております。毎年禅師様のお誕生日には会員が集まり、禅師様を囲んでお祝いをしておりました。
昨年出席した際にはお元気なご様子で、お言葉を頂戴いたしましたし、また10月に函館のお寺や永平寺東京別院などでご尊顔を拝した際にも、いつもとかわらず説法をおつとめになっておられました。
しかしこれだけのご高齢ですから、平気でおつとめになっていたはずはありません。おそらく、相当の無理をおして、おつらい時もあったのではないかと推察いたします。
それを表に出さず、最後の最後まで修行僧と檀信徒の教化に尽くされたその御道念のと誓願の深さを思うとき、禅師さまの慈悲深きお心に涙せずにはおれません。

禅僧が逝去したとき、「遷化(せんげ)」という言葉を使います。「遷」は「うつる」、「化」は「教化」の意味で、すなわちこの世でお姿は見えなくなったけれども、また別の世に教化の場を遷して、ふたたび教えを広めるという意味です。

教化の場を他方世界に遷された宮崎禅師。
その大恩に聊かでも報いるべく、今年も精進を続けていきたいと思います。
不老閣大禅師猊下のご冥福をお祈り申し上げます。

○以下、福井新聞オンラインに掲載された速報を転載します。
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news2/article.php?storyid=2798

>>福井県の曹洞宗大本山永平寺の第78世貫首、宮崎奕保(えきほ)禅師が5日午前5時43分、老衰のため札幌市内の病院で死去した。106歳。通夜は10日午後5時から、密葬は11日午前10時から、永平寺で行われる。喪主は同寺の森嶺雄(れいゆう)監院。本葬の日時は未定。宮崎禅師は歴代貫首最高齢で、開祖道元禅師の750回大遠忌成功に力を注いだ。

宮崎禅師の死去に伴い、福山諦法(たいほう)副貫首が79世貫首となった。

宮崎禅師は兵庫県加西市生まれ。同県内で住職を務めた後、永平寺単頭、同後堂、同顧問、同監院などを歴任し、1985年副貫首に選ばれた。93年9月、丹羽廉芳前貫首の死去に伴い貫首に就任。曹洞宗管長も兼務していた。札幌市中央区の中央寺住職も務めていた。

大遠忌は2002年3月から8カ月開かれた一大事業。期間中、全国から約67万人が永平寺を訪れ、宮崎禅師による「正当法要」などが盛大に営まれた。大遠忌を機に高野山真言宗総本山金剛峯寺とも交流し、宗派を超えて平和を呼び掛ける声明を発表した。

また、事業の一環として山門横に鐘楼堂を備えた広場「寂光苑」を整備。写経を納める「納経塔」や、中国浙江省で道元禅師が修行した縁で「道元禅師得法日中友好記念碑」も建立した。

近年は06年9月に福井市で開かれた命や世界平和について語り合う「県宗教フォーラム」に出席。「生きていることに感謝する心を忘れないでほしい」と語りかけ、混迷の世に規律ある日常を繰り返すことの大切さを説いた。

また、同年10月に開かれた日本薬剤師会学術大会では、自らの長寿について「両親や先祖、さらに大本の大自然に感謝し、真っすぐの心で座禅を組むことが結果的に長生きにつながった」と振り返っていた。

宮崎貫首は昨年12月に体調を崩して入院していた。遺体は8日に永平寺に帰山する予定。(福井新聞ONLINE 1月5日午後2時17分)

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