素晴らしき映画「ZEN」を拝観しました

平成21年1月10日より、中村勘太郎さん主演、道元禅師の御生涯を描いた映画「禅」が全国各地の劇場で公開されています。今日、いせさきムービックスに足を運び、拝観してきました。

映画ZEN

じつは昨年10月に予告編を拝見する機会がありましたが、短い予告編をちょっと見ただけでもかなり期待できそうな内容だったため、公開日を楽しみにしていたのです。
しかし公開直後の連休は都合がつかず、予定がなにもない日ができるまで先延ばししていました。今日はなんとか都合がつきそうなので、前々晩に席の予約をしていました。
ところが朝起きると大雪。本来ならば境内の雪かきをせねばならないのですが、今日を逃すといつになるかわかりません。最低限の雪かきだけして、後の除雪は本尊さまにおわびして一路映画館へ向かいました。

今日の大雪1

今日の大雪2

今日の大雪3
↑夜明け前の積雪状況 植木もすっかり埋まってます

雪で車が渋滞することを見込んで、早めに出たのですが、開演30分前についてしまいました。しかし直前に入館すると、すでに着席している方の前をかきわけて自席に就くのがいやなので、これくらい早めに到着する方が、心のゆとりができて気分的に良いです。上映される場所は、ざっと150人くらいのキャパでした。お寺の檀家さんを引率して大勢の団体で来るのはちょっと難しいように思いました。

お客さんは、5~60人くらいだったと思います。前から3列目までは、誰も座っていませんでした。まあ、平日の午前中の部ですから、一番すいているのだと思います。
ちなみに伊勢崎ムービックスでは、その日の第一回目の上映は割引料金になるので、予約指定席で1200円でした。
和尚さんらしき方が2,3人おられました。永平寺の修行時代の後輩もご夫妻で来ていました。


YOUTUBEの予告編 画面中央の三角印をクリックしてください


YOUTUBE 中村勘太郎さん、内田有紀さんインタビュー

映画ZEN公式サイト

ヤフー映画 ZENのヒロイン 内田有紀さんインタビュー記事

さて肝心の内容ですが、正直言ってたいへんに素晴らしい内容でした。
細かいところの突っこみはいくつかありますが、そんなことはどうでも良くなるくらい、息をのむ展開と、感動の連続に、「え、もうおしまい??」と思ったほど、時間を忘れてのめり込みました。
全編に渡って、涙なしでは見ることができません。必ず、ハンカチを持参することをお薦めします。私は溢れる涙を止めることができませんでした。

ちなみに、隣に座っていた見知らぬご夫婦、開演前は、ポップコーンをパクパクと食べ、飲み物をゴクゴク飲み、「やっぱ映画はこの組み合わせが最高だね」なんて言ってましたが、開宴とともにその手は止まり、終わった後「いやー、あまりのすばらしさにポップコーン食べるヒマもなかったよ。ほとんど残っちゃった」「そうよね、この映画を見ながらたべちゃあ失礼だわね」と言ってました。まったく同感です。

もちろん、良い映画だと思うかどうかは、個人の感性によって違いがあります。なかには、つまらないと思う方もいるかもしれません。まったく道元禅師のことを知らない、または興味が無い方がみた場合は別として、少なくとも道元禅師に対する想いというか、思い入れのようなものがある人が見た場合には、非常に心を打つ内容ではないでしょうか。

いわゆる「宗祖の伝記もの」や「宗派のPR映画」という、ありがちな内容は一線を画したできばえです。道元禅師の願いと、その純粋な求道心がいたいほど伝わってきました。

実は、この映画は曹洞宗という組織自体が企画したものではありません。もちろん最終的に協力はしていますが、(知り合いの和尚さんのお顔も、数名エキストラで登場してました)もともと曹洞宗内の有志が企画したものだそうです。
批判するわけではありませんが、宗派の公的機関が中心となって計画した場合、立場上どうしてもおかたくなってしまったり、各方面への配慮などから過激な表現ができなくなり、無難な内容になってしまうことがありますが、今回はそうでなく、比較的自由な立場で制作された経緯から、こうした素晴らしい内容の映画ができあがったのだろうと愚考します。

ただ1点だけ老婆心ながら蛇足を申し上げれば、曹洞宗の僧侶が拝観する分には特に問題ないのですが、一般在家の方が見る場合、ぜひとも事前に道元禅師のかんたんな略歴を予習してからご覧になることをお薦めします。
もしお寺の企画などでお檀家さんと一緒に見に行く場合、できれば和尚さんが前もって道元禅師の略歴や、知っておくべき点をお話ししておいた方が良いと思いました。
あまり説明的な場面が多い映画は二流なのだとおもいますが、そうはいっても、何も知らない方が見たら、おそらく理解できないだろうなあ、と思われる専門的な語句や、略歴を知っていた方がよりよく理解できるであろう場面の切り替えや展開などが少なからずありましたので。
ちなみに当典座ネットトップページから、「永平寺と道元禅師」のコーナーをクリックすると、道元禅師の略歴が紹介されています。
または売店で販売されている映画のパンフレットを購入し、開演前に読むのも一案です。(しかし、きちんと読むには三〇分はかかると思いますが)あるいは公式サイトをよく読んでからいくだけでもだいぶ違うと思います。

この映画を拝観し、ものすごく「和尚としてのやる気」が湧きました。
つまり、映画に刺激を受け、「俺もがんばらなくちゃ!」と発憤したのです。
道元禅師の生き様をあらためて目の当たりにし、自分自身の僧侶としてのあり方を反省し、初心を思い起こして、今年一年精進していこうという気になりました。
そういう意味では、一年の初めに見る映画として最高の映画でした。
映画制作に関わった多くの方々のご苦労に感謝いたします。

————————————————————————-

さて、ここまでは、なるべく具体的な映画の内容には触れず、漠然とした感想のみを書きました。まだ見ていない人にとっては、見る前に内容を書かれてしまったらつまらないでしょうから。
しかしここから先は具体的な感想や意見を書きますので、映画の内容が一部わかってしまう表現が含まれます。
ご覧になりたくない方は、ここから先はどうぞお読みにならないよう御警告いたします。どうぞご自身の拝観後にふたたびお読み下されば幸いです。
なお、場面紹介の中のセリフは、記憶に頼って書いたものですので、作品中のセリフとそっくり同じではありませんが、意味はだいたい合っていると思います。

映画のみどころはそれこそ書ききれないほどたくさんありますが、その中で特に深く心に残った場面が2点。

一つは、映画のはじめのあたり。
中国(宋)に渡った道元禅師は、正師(しょうし・真の仏法を伝える素晴らしき師)を求めて各地を行脚します。しかし、なかなか求める師に出会うことができません。
ある大きな寺で、キンピカの御袈裟を身にまとった高僧に拝謁する道元禅師。
(その高僧は私が好きな西村雅彦さんが演じています)

道元禅師は、自分が悩み、迷っている胸の内をさらけだしてその高僧に問いを発します。ところが、返ってきた答はあたりさわりのない、なんとも空虚な答。

高僧は「じゃあ、すまんけどこの後国の役人と会う約束があるから、この辺でいいかね?お寺を守っていくには、そういうことも大切なんでね」と席を立とうとする。
道元禅師は、「それでは寺を守れても仏法を守ることはできないのではないでしょうか」と糺しますが、フンと立ち去ってしまう高僧。「あなたは結局自分を守りたいだけだ・・・」と地を叩く道元禅師。

現代の住職、そして寺院のあり方を鋭く批判しているこの場面、自分自身深く感じ入るところがありました。やはり正しき仏法があってこそ、寺を守っていく意義があるわけで、仏法をまげてまで寺を守っても本末転倒であります。求めるべき寺院経営とはなんであるのか、今後よくよく考えていかねばなりません。
そこには自己保身という欲望がからんでくるのでやっかいです。

もう一つは、映画の終わりの方。
藤原竜也さん演じる北条時頼の苦悩を救うため、永平寺から鎌倉に赴いて法を説く道元禅師。
時の権力者である北条時頼に対し、適当に調子を合わせてごまをすりお茶を濁すようなことはせず、臆面もなく時頼の間違いを指摘します。

「あなたは、救われたい救われたいと望みながら、一方で何も捨てる勇気がない臆病者なのだ、片方の手で権力をつかんだとき、もう片方の手では苦しみをつかんでいるのだ」「どんなに高い地位や富を得ても、命が尽きて旅立つ時にはそれらは何の役にも立たない。ただ自分の積み重ねてきた行為だけがついてまわるのだ」
こうした説法に、時頼は「この無礼者が~~」と道元禅師を切り捨てようとします。しかし道元禅師の命をかけた説法の気迫と熱意にうちほだされ、次第に道元禅師の教えを理解しようと努めるようになるのです。

そしていよいよ永平寺に帰ろうとする道元禅師に、時頼は「決めた。わたしはここ鎌倉に、どこにも負けない大きな寺を建立する。道元禅師、ぜひともこのまま鎌倉に残り、その寺の開山(初代住職)となってくれないか」と破格の申し出をします。
ふつうならそんな願ってもない好条件、しっぽを振って喜ぶところでしょうが、
道元禅師はきっぱりと「いえ、お断りします。私の帰るべき寺は、ちいさなちいさな永平寺なのです」と断るのです。

これはさきほどの西村雅彦さんのシーンから貫かれているテーマだと思いますが、道元禅師が望んでいるのは、建物だけ立派で、人数も大勢いるかわりに中身がない建前だけの仏法ではなく、たとえ伽藍や設備はささやかでも、真の仏法を喜んで実践している少人数の修行僧こそが大切だったのです。まさに名誉や権力を避け、純粋な仏道に生きた道元禅師ならではの答だったと思います。

私自身、ともすれば「大本山永平寺」で修行しました、ということをいかにも表だってピーアールしているふしがあることを反省しなくては、と思いました。
法要があれば「大本山永平寺の~~」と御導師さまを紹介しますし、私も講演では「大本山永平寺別院のもと典座~~」と紹介されます。見ている人は、「へーすごいね」って思うかも知れませんが、それはあくまで永平寺に対してすごいと思っているのであり、私個人に対する評価とは別なのだと自覚しなくてはいけません。

確かに「大本山」という金看板は、外部に対し非常に効果が高い、わかりやすいいわばブランドなわけですが、大本山を大本山たらしめているのは、結局は個々の修行僧の中身次第なのだと思います。ブランド名だけに頼って、何もない自分を飾っても、しょせん看板倒れになります。
その意味で、映画で道元禅師が「ちいさなちいさな永平寺」とおっしゃった点を、よくよく心に留め、安易に「だいほんざん!」と権威づけることがないよう、自省したいと思います。

さて、さらにもう一つ、どうしても言いたい、気になった点があります。
当ブログのテーマでもあります、永平寺の精進料理の原点についても、映画では描かれています。
道元禅師が調理係の重要性を説いた典座教訓を著し、のちに永平寺の第3代住職となる義介禅師に典座の役を命じます。
義介禅師が台所で典座教訓を拝読してから調理を行うシーン。

典座の義介禅師を、俊了さんという修行僧が補佐して調理をしています。
大根の葉っぱを、慣れない手つきでまな板の上で切る義介禅師。
俊了さんは、義介禅師にこう言います。
「台所の仕事が大切な修行だってことは、頭ではわかってるんですけどね・・・。でも台所係の私たちは、坐禅をする時間がありません。他の仲間が坐禅を続けている間に料理ばかりして、皆においていかれるんじゃないかと心配なんです」

その悩みに対し、義介禅師は(どうも自分自身も納得していないような?ようすで)

「だったら皆が眠っている時間に坐禅をすればいいじゃないか」と答えます。

実際に、典座教訓には、典座役の修行僧に対し、料理だけでなく坐禅もしっかりしなくてはいけない、そのためには寝る間も惜しんで修行するのだ、と勇気づける文言が書かれていますから、このセリフはおかしくはないのですが、でももし私が脚本家だったら(!))「だったら皆が眠っている時間に坐禅をすればいいじゃないか」ではなくて、こう言うセリフにしたかったです。

「こうして大根を切るのが私たち典座の坐禅じゃないか」 と。

つまり、オリジナルのセリフだと、坐禅と調理が別物だというような意味にとれてしまうのが残念に感じる点です。
もちろん、祖録を精査すると、厳密には坐禅と調理は別なのですが、しかしあえてここはそうした専門的な差異はには目をつぶり、映画で調理係の大切さを訴える場面を加えた以上、真剣に調理することが料理係にとっての坐禅であり、坐禅とおなじような境涯で調理する必要があるというシーンにしてほしかったなあ、と思いました。
(もちろん、門外漢の私はそのような文句言う立場にはありませんので、あくまでも個人的な意見としてです)

さて、だいぶ長くなってしまいましたのでこのへんにします。
どうぞ、皆さん劇場に足を運んで、この素晴らしき映画を是非ごらんください。

記事が気に入ったら是非SNSでアクションをお願いします☆

Posted by 管理主宰者・典座和尚