葬儀の司会(法要解説)雑感

前回「風邪に注意」と書いてまもなく、自分自身が風邪をひいてしまいました。
熱はそれほど高くなかったのですが、喉をやられてしまい、その期間中に行われた法事などではひどい声で読経しなくてはならず、お檀家さんにだいぶ迷惑をかけてしまいました。

お母さんが若くして他界し、先日お葬式を手伝いに行ってきました。頼まれた役目は司会。

お檀家さんの葬儀では、葬儀社さんやプロの司会者が司会を担当することが多いのですが、僧侶やその配偶者などの葬儀では、僧侶が司会役をつとめることがあります。

なぜなら、単にスムーズな進行のためだけでなく、今どういう儀式が行われているのか、どんな意味の行為なのか、などを式中適宜参列者やお檀家さんに説明することで、葬儀を行いながら同時にお檀家さんへの布教をより深く行うことができるからです。
そのため、単に司会と呼ばずに「法要解説」「法要敷衍」などと呼ばれることもあります。

参列するお檀家さんにとっても、短時間ならともかく、意味もわからない法要に延々と数時間お参りするのは思いの外つらい場合があり、式中に集中力がとぎれてついつい雑談等始まってしまう場合がありますが、法要解説が入ると「なるほど、この動きはそういう意味なのか!」と得心することができ、時間を忘れてより一層法要に心を傾けることができるメリットがあります。
そして、解説次第では参列者の心を一つにまとめて、法要のムードを作ることもできます。

しかし良いことばかりではありません。
たとえば、導師がなにか声を出すときに解説の声がかぶって導師の邪魔をしてはいけません。あくまで解説者は主役ではなく補助的な立場なので、主役の進行を妨げてはいけないのです。
つまり解説者が式の流れを把握していなかったり、導師や式衆の動きや発声のタイミングなどを考えないとうまくいかず、かえって式の威厳を損ねてしまう場合もあります。
つまり、式の中で誰がどう動いていつ声を出すか、その間を理解したうえで、さらにそれぞれの僧侶のクセなどを先読みして、ここではこのくらいの間が空くからこれくらいの長さの解説をこの程度のスピードで読もう、というような気遣いが必要なのです。

他には、今行われている儀式の内容を説明する際、あまり長々と専門用語を使って解説すると雰囲気が壊れます。なるべく簡潔な言葉で、わかりやすくピンポイントで解説を入れる工夫が大切です。
またあまり理屈っぽくてもだめで、逆に過度に感情的になってもいけないので、そのバランスも考えなくてはいけません。

結局のところ、マイク一本渡されたあとは、どこで何を話すかは全て任されるわけです。
ついついたくさん話したくなるものですが、あまり連続して話すと法要の厳粛さが損なわれる恐れがあります。かといって必要な場面で解説を入れないと、参列者が「今の動きはなに?」「え、今なんて言ったの?」となってしまうので、どの程度解説を入れるかのバランスも考えてなくてはいけません。それに対する批判を怖れ、ほとんど話さない解説スタイルもあるのですが、それでは解説の意味がなくなってしまう場合もありますので、毎回そのバランスをどうするかで悩むのです。
(ここがいつも私の反省点です)

以上のように、解説はただ原稿を読むだけではとてもできません。
簡単なようでけっこう難しく、いわば特殊技術の一つであると言っても良いでしょう。
幸いにも私はもうだいぶ昔からこの役を与えていただく機会に恵まれ、ここ数年は年間に4,5回ペースでたくさんの経験を積ませていただいております。

もちろんまだまだ未熟者で、法要を終えるたびに色々と注意やアドバイスを受け、時にはうまくいかず自己嫌悪に陥ることもあるのですが、やはり場数というのは非常に大切で、回数をこなすほど原稿や資料も貯まりますし、なによりも過去の失敗や助言が自分の財産となって、未熟とは言え少しずつ成長することができます。
今年の秋にも、とある寺の大きな法要で解説をつとめた際、住職に「まだまだ合格点は出せないけど、数年前に比べるとだいぶ上達したな。」と厳しくもありがたいお言葉をいただきました。
未熟とわかっていながら依頼して下さる懐の広さに感謝するのみです。

さて、今回の修行仲間のお母さんのお葬式ですが、落ち込む仲間を気遣ってたくさんの仲間や先輩が全国各地から手伝うために集まりました。
精一杯司会を行うことで少しでも供養になれば、と頑張ったかいあって、司会の内容自体はおおむね好評で一安心したのですが、正直なところ、先輩の前でマイクを持つのはかなりやりにくい面があります。
終了後、何人かの先輩から非常に有益なアドバイスを受けました。
それは単なる批判や文句ではなく、「こうしたらもっと良くなる」という前向きな助言で、とてもうれしかったです。
もちろん、他の役をしながら解説を聞いていて感じたことと、実際に自分でやってみるのとでは大違いなので、私にはすぐにできそうにないようなハイレベルな指摘も受けるのですが、それはそれで今後のためにありがたく聞いて受け入れる姿勢が大切です。

以前他人からの指摘を受けて「そんなこというならあなたがやってみたらいい!」と言った人がいるそうですが、そういう態度ではもう今後誰も助言をしてくれなくなります。それは長い目で見れば大きな損失ではないでしょうか。
せっかくアドバイスをいただいているのだから、素直に聞く姿勢が大切です。

自分の至らぬ点や失敗を指摘されるのは、正直言って気分悪い場合もあります。しかし自分ではわからない、気づかない点を教えてくれる他人の存在は、宝もののように大切にしなくてはいけないと思います。

もちろん、からかい半分で何か言ったり、むやみに批判する人もいるのでよくよく聞き分けることが大切です。何でも全部聞いていたのではメチャクチャになってしまいますから。
道元禅師は『正法眼蔵随聞記』で「はづべくんば、明眼の人をはづべし」(他人の批判を受ける際は、ものの道理を見通せる人からの意見をよく聞くべきである)と説いておられます。

さて、そんななか一人の先輩が「法要中、1回も携帯が鳴らなかったのはよかったぞ!」と褒めて?くれました。(他に褒める点がなかったことによる皮肉だったかも?)

私は開式前、念を押して携帯電話の音を切るようにアナウンスします。
今までの経験上、一度言ったくらいでは徹底されないのが現実。「そこまで言わなくても・・」というくらい言って、やっと周知される場合が多いです。
「たかが携帯電話」「俺の携帯はどうせ鳴らない」と思っている人がかなりいます。

しかしそれまで張り詰めていた厳粛な法要の雰囲気も、楽しい携帯の着メロが鳴っただけでプッツリと緊張感が途切れてしまい、法要が台無しになってしまうことがあります。

ある葬式では、喪主が謝辞を述べようとしたら喪主のポケットで楽しそうな携帯着メロが鳴り、あわてて止めて謝辞をはじめたら再度鳴り、会場から失笑が漏れたことがあります。
また来賓の高僧が法要中に祝辞を述べていた際、高僧の携帯がたもとの中で鳴ったこともあります。
また私が調理師免許の試験を受けに行った際、試験監督が「携帯の音必ず切って下さいね-」と何度か受験者に注意したあと、試験中にその試験監督本人の携帯が鳴って会場爆笑したこともありました。
(全て私が体験した実話です)

当然、どの会場でも一度は司会が携帯を鳴らさないように注意するわけですが、一度くらいでは徹底されないので、私は何度も繰り返すのですが、誰の携帯も鳴らずに無事法要が終わると正直ホッとします。
今まで何度も司会を務めましたが、その点を褒められたのは今回がはじめてです。
終わってしまえば、携帯のことなど誰も気にもとめていない場合が多い中、あたりまえのようでいて、実は気を使っていたり苦労している陰の努力を褒めてもらえると嬉しいものですね。
褒めてくれた先輩の観察力を見習いたいと思いました。

ちなみに11月29日、
「天皇皇后両陛下ご臨席のもと参院本会議場で行われた、議会開設120年記念式典の最中、ひとりの議員の携帯電話着信音が鳴り響く失態があった」というニュースが流れました。
「諸刃の剣」というように、便利な道具は使い方を誤ると有害になります。
まあ人間誰でも失敗はありますからその方を責めるつもりはありませんが、自分も携帯電話の音には十分注意しなくては、とあらためて反省しました。

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