行ってきました鹿児島! 精進料理講演

今までは「北は北海道、南は山口県・・全国飛び回って精進料理の素晴らしさを伝えております」と言っておりましたが、今回鹿児島で講演を行うご縁を得て、ようやく「南は九州まで、」と言えるようになりました。

お招き下さったのは浄土真宗本願寺派、鹿児島教区寺族婦人会の研修会です。
直接のきっかけは、昨年3月に発行された浄土真宗の機関誌「御堂さん」に私の記事が掲載されたことだそうです。

私は曹洞宗の僧侶ですので、つまり他の宗派からお声がかかったということになります。
以前にも浄土真宗さんの研修に招かれたことがあり、そのときも感じましたが、他の宗派だからどうのとかそういう狭い見方を捨てて、宗派は違っても同じ仏教なのだから、良い点は素直に学ぼうという広い懐に頭が下がります。

今回の参加者は寺族婦人会、つまりお寺の奥さまが中心です。したがって浄土真宗の教義はよく理解しており、他宗の教義を取り違えてしまう心配はほとんどなく、逆に曹洞宗の教えとの比較もできる、という確固たる自信を持った上でのご依頼です。

まあ教義的な面もそうですし、もう一つのポイントはやはり精進料理の技術的な面を学びたいということでした。鹿児島県でもかつてはお寺で法要などの集まりがあると、たいがい手作りの精進料理を出していたそうですが、いろいろな事情もあって今は仕出し料理や出来合のお弁当を出すお寺が増え、料理のノウハウも途絶えつつあるのだとか。

開祖親鸞聖人の750回忌にあたり、県内寺院で各種アンケートを採ったところ、若い世代を中心に、門信徒さん(こちらでいうところのお檀家さん)がなかなかお寺に興味をもってくれなくなっている、お寺に来てくれない、という問題が浮き彫りになったのだそうです。
そこでさまざまな対応をする中の一つの案として、かつてのように寺で手作りの精進料理を出すことも大事ではないか、という観点から、じゃあおいしい精進料理ってどんなものなのかまずは食べてみて作り方を教わろう、ということが企画の一理由だそうです。

確かに、昔のようにただつきあいや慣例としてお寺の行事に参加するという人は減っているのが現実です。しかしその反面、特に若い世代を中心に、仏像や精進料理、写経、坐禅などが大ブームになっており、そうした具体的な入り口を持つ寺に人気が集中しているのも事実です。

さすがに精進料理を目当てにお寺の行事に行くという人は少ないかもしれませんが、お寺の行事で料理を作るとなれば、調理や配膳、準備や片付けなどで檀家さんや役員さんの力を借りることになります。一見面倒ですが、実はそうしたお寺を舞台にした参加者の協力というものが、心と心のふれあい、そして集団のまとまりにはとても大切なのです。そして今の時代、みんなで手作りの料理を食べるという機会が減っています。お寺で食べる昔ながらの料理というのが、懐かしく、また逆に新鮮に思えるのです。
そこに敏感に反応し、すぐにできる対策として研修を持つというフットワークの軽さに他宗派ながら深く感服し、同時に21世紀の現代、宗派は違っても同じ仏教徒どうし、宗派の垣根を越えて交流するということの意義を感じました。


会場のお寺のすぐ近くには大きな西郷隆盛像。関東人の私にとって西郷さんといえば上野公園の犬をつれた着物姿の像ですが、こちらは西南戦争の大将として新政府軍と闘った群服姿の凛々しい西郷さんの像です。


会場は浄土真宗本願寺派 本願寺鹿児島別院。鹿児島市内中心部にあるとても大きなお寺です。みてくださいこの立派な門がまえと伽藍。


夜遅くに到着したため、まずはご本尊さまへのご挨拶をしたく、翌早朝の勤行にお参り(見学)させていただきました。他宗派の朝のお勤めというのは、何度お参りしても興味深いものです。
作法やお経などはまったく違いますが、仏さまを深く信仰する心を形に表すという点では共通です。
お線香が立っていないようですが?ろうそくに火はつけないのですか?お焼香はしないのですか?礼拝はしないのですが?導師でも坐褥(座布団)は使わないのですか?最後の方でうやうやしく運ばれ、玉手箱のような立派な箱の中から取りだして拝読していたのは何ですか?
などなど、終わった後あれこれと聞くことができとても勉強になりました。

それから写真を見て分かるとおり、一番の違いは頭髪の有無。
まあこれは宗旨の違いによるものなのでどちらが良い悪いではありませんが、個人的なことをいえば私などはもはや毛が薄くなってきたため、ツルツルの方が薄毛が目立たなくて助かっております。
「数日おきに剃るのたいへんでしょう」と言われましたが、「いやいや、髪がある方が早朝の勤行前に、寝ぐせを直すの大変じゃないですか・・」「床屋さんで剃るんですか?」「いえいえ、3枚刃のカミソリで自分で剃ります。慣れたので3分あれば剃れますよ」などとたわいもない会話で盛り上がってしまいました。

そして一番感銘を受けたのは、約一時間ほどの勤行の最後の方で、僧侶衆がいったん本堂の隅の方に移動したかと思うと、その中の一人が前に出て、演台に立ち、勤行に参加していた10人ほどの門信徒に向かって10分ほどの説法をなさったことです。そのお話がまたいいお話でした!(他宗派のことをあまりほめすぎると、曹洞宗の先輩方に叱られるかもしれませんがお世辞ではなく、良い説法でした)

お話をなさったのは、かなり若い方でした。まだ20代前半で、正式な僧侶になってそれほど経っていないとあとで聞いて再び驚き。
私も曹洞宗の中では布教師の専門教育を受けており、それなりの資格を持っているため、仲間の法話を聞く機会もずいぶんありましたが、細かい技術は抜きにして、これほどしっかりした法話が出来る20代前半の僧は曹洞宗にはそれほど多くないと思います。

そもそも、曹洞宗でも永平寺などに参拝すると希望者は法話を聞く機会がありますが、ほとんどが高僧または布教専門の老師による法話で、若い僧侶が前に出て正式にお話しする機会はおそらく滅多にないでしょう。20代で法話をする機会というのは、特に修行道場においては非常に少ないのが現実だと思います。実際、自分の修行時代を思い起こしても、20代前半に人前でこんなしっかりした法話はとてもじゃありませんができませんでした。

聞けば、毎日日替わりで当番を決めて、年齢に関係なく交替で説法をするのだとか。なので今日の僧侶が飛び抜けて上手というわけではなく、みなあれくらいは当たり前ですよ、と涼しげな顔で説明されました。しかも参拝している門信徒さんもいつも法話を聞いており、要するに聞く耳が肥えているため、いいかげんな話はできないとのこと。
そのうえ高僧たちも、すべて脇に移動してしっかり法話を聞いているため、もしおかしな点や直した方がいい癖などがあれば、あとで細かなアドバイスを受けるそうです。朝の勤行だけでなく、昼間行われる法要でも欠かさず交替で説法をするため、法話をする力は若いうちから自然と伸びるのだとか。
要するに場数が違うってことですね。良い法話を毎日聞いていれば当然地力がつくでしょうし、高僧の法話だけでなく、自分と同年代の僧の説法を身近で日々聞いていれば、学ぶべき点は非常に多いと思います。

もちろん曹洞宗でも、修行が終わって寺に戻れば、若い僧侶でもお檀家さんの法事などで説法する場がありますが、惜しむらくはその場合檀家さんしか聞いていないので、仲間の僧侶による意見や批判、指導がないのです。そのため時に自己流になりがちです。
考えてみると、永平寺修行中に、仲間と説法の技術についてお互い指摘しあったことなどありませんでしたし、私などはそもそも説法にどういう技術があるのかさえ知りませんでした。(誤解ないようにいえば、永平寺で説法を軽んじているということではありません。あくまでも、浄土真宗に比べたら、ということです)

「一回聞いただけですが、浄土真宗さんの、法話に関する層の厚さというか、力のいれぐあいにあらためて感心しました」と感想を述べると、「でもそれを言うなら、たとえば曹洞宗さんは修行で料理を一生懸命作るから、精進料理が上手な和尚さんが育成されるわけでしょ?私にとっては料理つくれる僧侶ってすごいなあと思いますよ。ほかにも、坐禅とか法要の細かい作法とかも、修行で覚えるわけでしょ?うちの宗派でいえば、法話はもうあたりまえの基本なんですよ」
と答えられなるほど納得。

確かに永平寺では、お経の読み方とか、木魚や鐘を鳴らすリズム感、歩き方や姿勢、合掌のしかたなどの立ち居振る舞いについては先輩からも同級生からもそりゃあ細かく注意しあったものです。
ましてや宗旨の中心である坐禅の作法については大変厳しく、修行僧の誰もが、若いうちから自信を持ってお檀家さんにしっかりした坐禅指導を行うことができるとおもいます。
つまり、修行中に大切にしているポイントがかなり違うということだと思います。これはもう宗派や修行道場のシステムの問題だな、と思いました。
しかしこれからの時代、永平寺でも坐禅の作法や起居進退と同様に、説法に関してももっと今以上に重視して、お互い切磋琢磨していくべきではないかなあと強く感じました。これからの時代、今まで以上に説法がとても大切になってくることは間違いありません。

ということで、浄土真宗では説法を非常に大切にするとは聞いておりましたが、これほどまでとは思いませんでした。もちろん、教義や歴史的背景の違いもあるためやむを得ない事情もありますが、こういう面はわれわれも素直に学ぶ必要があるなあ、と思いました。

ああ、余談でこんなに長くなってしまったので研修のメイン部分は次回紹介します。

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