永平寺宮崎禅師の七回忌法要

永平寺七十八世宮崎奕保禅師の七回忌法要に参列するため、福井県の大本山永平寺に拝登して参りました。

永平寺、そして永平寺東京別院を通じて禅師様のお近くで修行させていただいた中で、本当に多くのことを学ばせていただきました。もしその教えがいわゆる机上の教科書的教理であったら、これほど記憶には残らなかったと思います。ご自身が率先して厳しい修行に打ち込む中で発せられた、行動を伴う生きた教えだったからこそ私たち修行僧の身に深く染みこんでいったのだと思うのです。

宮崎禅師
永平寺東京別院の御征忌法要で御説法なさるありし日の宮崎禅師様
二十代の私たちが、疲れて朝3時に起きるのが辛いと泣き言をいう中、百歳を超える禅師様が自ら朝2時には御起床なさって坐禅を始められていた姿を見ると、自分の甘え心が恥ずかしく思えてきたものです。
その修行に対する厳しい姿勢には今思いだしても頭が下がります。
そして時折ダジャレのようなおもしろいことをチョロッとおっしゃるユーモアな一面もあり、多くの修行僧と信者を魅了してやみませんでした。

旅立たれてからもう7年近く経ったのだなあ、と時の早さを感じながら永平寺に到着。
行きの北陸道は台風の影響で前が見えないほどの風雨でしたが到着して間もなく雨もあがり、法要は秋晴れの中での開式となりました。

宮崎禅師七回忌法要

一般的な七回忌法要だと法要を一度行う場合がほとんどだと思いますが、永平寺の前住職ですから最も丁寧な作法として、前日の夕方に蜜湯をお供えする逮夜法要(たいやほうよう)、当日の早朝にお粥をお供えする献粥法要(けんしゅく)、そして当日の昼前に正当献供法要(しょうとうけんぐ)と、二日間にわたり三度の法要が行われました。
前回の三回忌の際はどうしても都合が合わず、逮夜法要だけしか参列できませんでしたが、今回は二日間参列することができ、本当にありがたい法要に立ち会うことができました。

宮崎禅師様が永平寺の住職在任中、首座(しゅそ・百日修行の筆頭修行僧)を務めた者の会が「黙照会」で、同じく在任中に側近として禅師様と同じ建物で起居して四六時中お仕えする従侍の役を務めた者の会が「三応会」です。私はありがたくも三応会員として法要に参じました。
禅師様にご縁のある僧が全国から参集し、また会の先輩、同輩、後輩等ざっと2~300名はいたと思いますが、広い法堂が隣の僧とぶつかって礼拝できないほどビッシリ詰まった満座となり、七回忌を迎えてもまだまだ禅師様を慕う僧がこれほど多くいるのだなあ、とそのお徳の高さに感じ入りました。
皆それなりの立場に就いて日々忙しくしている中、かつて共に修行していた仲間たちが全国から集まったのを見るだけで胸が熱くなります。

宮崎禅師の七回忌法要

早朝にお粥を献ずる法要の導師を務められたのは、宮崎禅師に最後まで付き従った当時の侍局長、中村老師。法要の冒頭に唱えられた供養の漢詩、朗々と法堂に響き渡りましたがいつもの中村老師のお声と違ってどこかもの寂しさが満ちていました。私の位置からは遠すぎてお姿は見えませんでしたが、もしかしたら感涙なさっておられたのかもしれません。
宮崎禅師の厳格なる仏法に徹した生涯を讃える漢詩は、どうかこの一椀の粥をお召し上がり下さい、と結ばれました。

前晩の逮夜法要の導師は南澤副貫首老師、七回忌正当法要は福山禅師がおつとめになられました。
永平寺の法要に参列したのは1年ぶりでしたが、やはり永平寺はいいなあ、と修行道場の厳粛さをあらためて感じました。地方で行われる法要は、どうしても諸事情で臨機応変に式次第が変えられたり、作法を間違える僧がいたり、あるいは大寺院の僧の都合で急に内容が変わったりということがままあります。そうした柔軟で穏やかな法要もまた地方の良さではあるのですが、やはり本山のようになにがあろうともキッチリと定められたとおりに一糸乱れぬ作法で厳修される法要はその場にいる者の心を大きく動かします。

数百人の僧侶と信者さんが一箇所に集まっているというのに、誰一人物音一つ出さない沈黙の中で、禅師様が黙々と礼拝なさっている場面を見て、「静寂さをお供えする」ことの素晴らしさをあらためて知りました。ただ季節外れの蝉がなぜか法堂の奥の森で鳴いている声がよく響いていました。

地方での法要に馴れきってしまっている自分に、本山の引き締まった法要は、初心を想い返す大変良い刺激になりました。

宮崎禅師のお墓
歴代住職の墓所、寂光苑(じゃっこうえん)にある宮崎禅師と、縁ある高僧方のお墓にお参りし、少しでも報恩できるよう、今後も精進していく決意を新たに永平寺を後にしました。

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