志を胸に

春。草木が芽生える始まりの季節。世間でも会社や学校などで多くの新しいスタートが切られます。同じく、春は禅の道場にとっても節目の季節。修行を終えた者が道場を後にし、かわって新たに志を抱き禅の道に第一歩を踏み出す修行僧が上山する季節です。

禅の修行者を雲水と呼びます。それは行雲流水の略で、なにものにもとらわれることなく、雲が空を行き、水が川を流れるが如くに、自由に己の居場所を求めて行脚する様を表しています。
自らの求める家風を宣揚する師がどこそこの道場にいる、と風説に聞けば、現在の寺を辞して師のもとを訪ねるのです。かつて中国に渡った道元禅師も、良師を求めて中国の諸山を旅したと伝えられています。その故事にならい、雲水は錫杖とよばれる杖と、食事をとるためのうつわ、そして法衣などのわずかな持ち物だけを担いで旅をします。寺に到着すると、彼らは携行した錫杖やうつわを、定められた場所に吊り下げ、また立て掛けます。そのため、雲水が寺に身を置くことを「掛搭(かた)する」と言います。
わが永平寺別院にも、この春20名ほどの雲水があらたに掛搭しました。


新たなる志を胸に

かつては、道場に到着した雲水は長旅の疲れをいやすための部屋に通され、寺に慣れるためにそこで数日坐禅などをして過ごしました。すなわち、寺は新到着者を客人として篤くもてなしたのです。しかし時代が遷り現代、前日まで俗世間で自由に暮らしていた者を客人扱いしたのでは、厳格なる禅の家風は保てません。
現在では、雲水が山門に到着すると、やおら古参雲水がその前にやってきて、「残念ながら当道場は只今満席だ。手狭なため他の道場をあたるがよかろう」と遠回しに入門を断る旨を述べ、すぐに去ってしまいます。その後は待てども待てども誰も応対に出てくれません。すなわち到着者に許される意思表示は、ひたすらそこに立ちつくすしかないのです。雪が舞おうが雨が降ろうが風が吹こうが、ただただそこに立ち、自らの修行に対する決意の固さを認めてもらうしかないのです。もちろん、耐えることができずにその場から去ることもまた自由です。しかし、その程度の試練に打ち克つこともできずに、他者を救う仏の道を進むことができるはずもありません。
それは雪舟の水墨画でも有名なシーン、かつて中国の山中で、無言で坐する達磨大師の背に向かって、弟子になることを懇願するために雪に埋まるまで立ちつくした二祖慧可大師の故事を思い起こさせます。

直立不動で数時間も立ち、手にも足にも感覚がなくなり、もはや倒れんとせんとき、再び先ほどの古参雲水があらわれ、ようやくその決意の固さが認められ、草鞋を脱ぐことが許されるのです。

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