食品偽装問題 さらにもうひとこと~懺謝の作法~

同じ話題に対して3回目のアップ、長々と誠に恐縮です。
本日、今度は誰もがお世話になったことがある某ハンバーガー店での賞味期限改ざん問題がニュースに上がるなど、まだまだ続きそうな食品偽装問題。

今日は先日取り上げた某老舗料亭を舞台とした食品偽装問題について、もう少しお話したいと思います。料亭の実名をあげることはあえて避けますが、販売していた菓子などの消費期限改ざん、鶏肉や牛肉の偽装販売などでニュースをにぎわせましたので、多くの方がご存じのことと思います。

問題が発覚した際に経営陣による会見が開かれましたが、ここで私が注目したいのは、その時の経営陣の対応です。取締役は、「あってはならない不祥事で、責任を痛感している」と謝罪しながらも、「賞味期限のかいざん(ラベルの張り替え)は、すべてパート従業員が行ったことで、会社は指示をしていない」と主張しました。

それに対して、後日責任を押しつけられた形のパート従業員4名が会見を開き、ラベルの張り替えは取締役の指示によって行ったと反論。
その内容をさらに取締役が否定し、現在は言った言わないの泥沼状態になっているようです。売り上げ状況が時給にあまり関係ないであろうパートの立場で、率先して賞味期限をごまかしてまで売る必要があったのかどうか・・・。やはり何らかの指示があったのでは?と感じる人が多いようですが、現在捜査中ですので、ここではその真偽には触れません。

ただ、その会見を見た私の頭に浮かんだのは、修行道場に伝わる「懺謝」(さんじゃ)という作法でした。
修行道場で、何か問題が起きたとします。たとえば、修行僧どうしがケンカをしたとかいう、守るべき規則を自ら破ったような場合。
あるいは、法要中にお供えのお茶をつまづいてこぼしてしまったとか、わざとではないにしろ重大な失敗をしてしまったような場合。
そうしたときには、その当事者はお袈裟をかけた法衣姿、いわば正装となり、まずは仏さまや道元禅師さま、螢山禅師さまに対しておわびの礼拝をします。続いて、道場内の関係各所を廻って、指導役の老師方などに対して同じくおわびの礼拝をするのです。これを「懺謝の拝(さんじゃのはい)」といいます。
犯してしまった過ちの程度により、礼拝の仕方や廻る部署の数などに差があります。

よほど悪質な行為の場合、この「懺謝の拝」ののち、さらに謹慎したり道場を去ったりして責任を負う場合もあるのですが、それはごく稀で、通常の修行生活を送っている限り、何か問題が起きた場合はこの「懺謝の拝」で反省の意を表し、俗世間の言葉でいえばけじめをつけるのです。

そして、通常は過ちを犯した修行僧本人がこの「懺謝の拝」を行うのですが、場合によっては、その修行僧が所属する部署の責任者が懺謝することもあります。
たとえば、もし道場の台所で食中毒が出てしまったとしたら、それは当然台所を管理する典座和尚の責任ですので、調理係を代表して典座和尚が懺謝の拝をすることになります。

私自身、今まで何度か懺謝の拝をしたことがありますが、その中で一番印象に残っているのは、とある修行道場で典座(調理責任者)を務めていた時のことです。
その道場では、通常朝の食事は調理係の修行僧が一人で準備し、責任者である典座は朝は台所に入らず、坐禅やおつとめに参加します。朝はおかゆとたくあん、ごま塩におかず一品だけなので、修行僧一人だけで十分間に合うのです。
もちろん、まだ台所係に配属されて間もない修行僧が当番の日や、来客や特別行事があって忙しい日は典座も朝から厨房に入るのですが、その日は台所係の経験が長い修行僧が当番の日だったので、私も安心して任せておりました。

ところが、朝の坐禅とおつとめ(読経)が終わり、さあ次はいよいよ朝食の時間だという段階で確認のために台所に行ってみると、なんと料理がまったく進んでいないではないですか! これにはビックリしました。おかゆの鍋に火も入っていないし、たくあんも切ってありません。

実は当番の修行僧にやむを得ないトラブルが発生し、調理が全く進んでいなかったわけです。その辺の理由はここでは書きませんが、とにかく朝食の時間になっても何もできていないなんていうことは、前代未聞の事態です。おかゆが少々焦げたとか、調理が間に合わなくて、食事時間を少し待ってもらったということはありましたが、何もできていないのは今までの修行道場の生活の中で一度も聞いたことがありません。
いやー、冷や汗が出ましたが、もうどうしようもないので、その朝は、禅堂での正式な食事を急遽中止にしてもらい、とりあえず何か食べることができるものを急いで用意し、略式の食事作法で食べてもらいました。

なんとか朝食を用意し終えた後、私はお袈裟をかけた正装に着替え、まずは開山堂で道元禅師さまをはじめとする仏祖に懺謝の拝、続いて禅堂にて聖僧様(文殊菩薩様)に懺謝の拝、そして寺の実質的責任者である監院老師(かんにんろうし・一般の寺でいえば住職にあたります)や維那老師(いのろうし・法要の責任者)などなど・・のお部屋に行き、最後には迷惑をかけた修行僧の前で、朝の不始末を詫びて懺謝の拝を行いました。

当事者である修行僧は伴わず、調理責任者である典座だけで懺謝の拝を行いました。朝食が時間通り用意できなかったという重大な過失ですから、もはや修行僧だけの懺謝ですむ範囲を超えているためです。
しかし、ここで特筆すべきは、懺謝の拝においては、余計な言い訳や弁解などは全くいらないという点です。
「いやー、修行僧のせいで・・私は悪くないんですよ」とか「なんで私が責任とらなくてはいけないんだ、やったのは修行僧ですからね、」などという無駄口は一切不要、ただただ無言でお拝を行じるだけです。

そんな余分な弁解をせずとも、狭い修行道場内ですから、だいたいの事情はあとから伝わります。典座自身が悪いのではなく、修行僧に実際の責任があることも、お拝を受ける者は十分わかった上で、あえて無言の中で行じられるところに意味があるのです。

修行僧ですから、未熟なのが当たり前、当然失敗はあるわけで、そのための修行道場です。わざと間違えたのではなく、やむを得ない失敗であるならば、その責任をとるために責任者である指導役、すなわち典座がいるわけです。いざというときに責任をとってくれないのでは、のびのびと修行に励むことはできないでしょう。もちろん、私自身が修行僧の時にも、色々と失敗をしましたし、大きな過ちも犯したことがあります。その時にも、同様に当時の典座老師が責を負ってくださったのです。

典座が、修行僧の犯した責を負って懺謝の拝に廻る姿を見るとき、一番辛い思いをするのは当事者の修行僧自身です。百万の叱責の言葉よりも、その無言の姿こそが、以降同じ失敗をしてはいけないんだ、という強い誓いになるのです。
間違えてしまったこと、犯してしまった過失を、隠してもしかたがありません。いずれ発覚することです。大切なことは、以降同じことがおきないように互いに努力し合うことです。そのためには、責任を押しつけあっていては後々の結束に問題が生じてしまいます。いろいろな事情は胸にしまい込み、黙って責任者が外部の関係各所に詫びてけじめをつけ、その上で反省すべき点を内部で検討しあって次に生かすのが最善だと思うのです。

今回の食品偽装問題で、責任をなすりつけ合うような展開を見て、修行道場の懺謝の作法の清廉さ、そして意義深さをあらためて感じました。

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