ある噺家の発言

先日、とある落語家の方が、「裸でお盆を持って何が芸なんですか、ああいうのを見て面白いな、うまいなと思われちゃ困るんですよ。日本の言葉を使って笑いを取るのが芸人であり、我々噺家だと思いますけどね」と述べたと報道されました。
落語家
 
どこがおもしろいのかさっぱりわからないネタや、芸というのも憚れるような方もいるでしょう。個別の若手芸人を批判したかったわけではなく、そうした風潮を嘆いて特定の名を出しただけなのかもしれません。主旨としては芸の重みや噺家としての矜持を伝えたくてこうした言葉が出たのでしょうが、だったらなおさら、他ジャンルの若手批判をわざわざ付け加える必要はないのでは、と強く感じました。
 
世の中、同列において比べるべきでないことってたくさんありますよね。
たとえばフランス料理やイタリア料理の高級レストランに行って一皿1万円近いメインディッシュを頼んだら、そりゃあもうどうやって作るのか見当も付かないような美しい盛り付けと深い味わいの料理が出てきます。
対して、夜遅くまで受験勉強していたらお母さんが持ってきてくれた、夕飯の残りご飯に鮭缶を載せたお茶漬け。
作るのにかかった手間や努力、見栄えは、そりゃあ段違いでしょうが、それって比べるものでしょうか?
 
一流レストランのフランス料理を正装で時間をかけて味わいたい時もあれば、ササッと手早く食べたい時もあります。夜中ならこってりした重いイタリアンより軽めのお茶漬けの方が良いことだってありますし、愛情・コストなどなど、もう関係要素が多様すぎてどっちが良いとか比べることすらナンセンスです。シェフが「お茶漬けなんぞを料理だと思ってもらっちゃ困るんですよ。私の料理はどれだけつらい修業の末に身につけた、フランス伝統の・・・(以下略)」
 
同様に、ご本山クラスの高僧が導師をつとめる法要だけが素晴らしいかというとそんなことはなくて、普段から地域で喜怒哀楽を共に生活してきた田舎寺の和尚のひと言がやけに染みいる場面だってありますし、また時には宗教や仏事なぞまるっきりわかっていない子供が、死んでしまった飼い犬に涙を流して手を合わせる無垢な祈りの姿に心を打たれることだってあるわけです。
あるいは難解な教義の細かい一文字の意味まで追及する学究僧の姿勢と、台所で包丁を握りゴボウを切る精進料理僧とで、修行の尊さに差はありませんし、高尚か泥臭いかで価値が決まるわけではないのです。
 
お笑いも同じだと思います。裸で股間を隠す芸風、気軽にだれでも、構えずにパッと笑うことができて、イイじゃないですか。そんなにひどい芸だとは私は思いませんけどね。わかりやすくて、気軽に笑えて良いと思います。長時間の仕事からクタクタになって帰宅し、明日も早いから早めに寝なければいけない時、お風呂上がりにテレビでその芸をみて、なーんにも考えずに馬鹿笑いしてストレス解消できるなら、それは立派な芸だと思うのですがね。いつでもじっくり日本語の素晴らしさを味わって噺を聴けるわけじゃないですから。
 
それにお盆で股間を隠す芸だって、誰でもできる思いつきの芸ではないと思います。どんな分野でも、たくさんのライバルの中で注目を浴びて人気を維持するには表に出ない苦労や努力が必ずあるものです。ですからお盆で股間を隠す芸をことさらに貶めるような発言は非常に残念です。
件の噺家さんの努力やプライドはよくわかるのですが、他人を批判してまで、自分のこだわりを公言してしまうのはどうなんでしょうか。むしろ、陰の努力や頑張りをあまり表に出されると笑いも引っ込んでしまうと思うのですが。
 
もちろん、歴史的な重みや努力の素晴らしさ、伝統芸能の価値を否定するわけではありません。でも流行の気軽な芸だって、それはそれで別の意味で価値があり、別次元のものをわざわざ批判しなくて良いじゃないですか。
そしてそれは提供する側が押しつけがましく言うのではなく、受け取る側がその時の気分やニーズに合わせて受け止め、評価するべきことなのではないかと思います。
 
少なくとも私は、自分が信じる道を一生懸命頑張っている人を蔑んだりせず、心から応援したいと思いますし、自分自身も、もし他人に何か傷つくようなことを言われても揺るぐことなく自分の道を進みたいと思っています。
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