セオリーと崩しは状況次第

本日、あるニュースが報道されました。
簡潔にまとめると、京阪電鉄が作成した祇園祭のポスターに写っている女性の着物の帯の模様がさかさまだということが各方面から指摘され、議論がおきているようです。
単なるミスではなく、伝統的なスタイルを意図的に崩す流行をふまえて、スタイリストがあえてそうしたとのこと。

画像はこちらから見ることができます。上から2番目のポスター

↑ 昨日は見ることができましたが、今日になってサイトから削除されたようです。

こちらの記事はおそらくあと数日間は見ることができます。

それに対して、京都の伝統文化関係者などから「伝統を重んじる祇園祭の広告にはそぐわない」(40代女性)、「あり得ないミス」(60代男性)「お粗末の一言。ベーシックな柄であり、ましてや吉祥柄を逆さにして新デザインというのはいかがなものか。デザインとは文化。もっとよく勉強してほしい」」(西陣織工業組合の渡辺隆夫理事長)というような反論が殺到しているようです。

これについてひと言意見を述べてみたいと思います。
今回の場合は、うっかりミスではなく、スタイリストさんが自分の明確なビジョンに基づいて、意図的に行ったことで、クライアントである京阪電鉄さんも了承したうえでの公開のはずですから、それに対して過度に批判するのは筋違いではないかと思います。

実際、私自身も精進料理の撮影を数多く経験しておりますが、撮影の時は本当に気を使います。
箸の向きは右か左か、お椀の位置はこれで良いか、懐紙の折り方はどっち向きか、いんげん豆の本数は・・・。など、特に蝋燭や花の置き場所とか応量器の並べ方とか、宗教的な慣例については念入りにチェックします。
いくらデジタル時代で多少ならレタッチができるとはいえ、一度撮ってしまうとそう簡単には修正できませんから、最悪撮り直しなどということになったら経費的にも時間的にも最悪です。

私自身、他の精進料理人の記事や著作物などを勉強のために見ると、「え?これヘンじゃない?」という写真を見かけることがあります。以前ある修行道場の機関誌で料理が逆さまに写っていたことなどもありました。撮影時のチェックと事後の校正はとっても大事です。

ただ、あえてその基本をやぶって冒険する場合も当然あります。
たとえば、禅僧が食する応量器。正式な並べ方としては一直線に並べるのですが、拙著『典座和尚の精進料理~家庭で楽しむ110レシピ』ではわざとこのような感じに並べて撮りました。

ちなみに『永平寺の精進料理』『永平寺の心と精進料理』では、基本通り一直線に並べた写真を掲載しています。

その判断基準としては、『永平寺の』と冠する以上は、永平寺で守られている作法を正確に伝えることが一つの目的だと思うからで、逆に『典座和尚の~』はあえて修行道場のイメージを避けて家庭でできる精進料理を提案するのが趣旨であるため、正式な雲水の作法にとらわれる必要性は低いわけです。

要するに私の言いたい点は、「伝統を崩すような挑戦や冒険ももちろんアリ、しかしそれは時と場合を考えないと」ということです。
私的な発表の場や、比較的若者向けとか、前衛的な場面であれば、帯をあえて逆さまにする試みもアリだろうし、それを見る人もそのようにとらえるでしょう。

しかし何百年も続く伝統的な祭りのポスターでそのようなチャレンジをする必要があったのかどうか、伝統や文化を受け継ぐことを皆が誇りに思っているお祭で、基本を外したのはいただけません。

そのポスター全体から、「あーこれはアートなんだなあ」「新しい試みに挑戦しているんだなあ」という雰囲気が伝わってくるならまだしも、そんな感じではないし、見た人(まあ和服の知識がある程度ある人)は「これ帯の向き間違ってるのでは?」と不思議に思うでしょうね。

また今回の件が複雑なのは、もう数百年以上続いている日本の伝統文化には、それぞれ深く重い意味が備わっている場合が多く、そうした知識抜きで安易に崩すというのは非常に危険です。
たとえば、お葬式の際には、弔という普段とは違うことを表し、魔を防ぎ不幸の連続を避けるなどの意味で、なんでも逆さまにする風習があります。
まくらもとのついたてを逆さまに置き、ご遺体の着物をふだんと逆さまに合わせたりするのです。
このため、着物の合わせ順を逆にするのはお葬式の時だけ、ということから、普段の生活で着物を逆さまにしてしまうのはとんでもなく縁起が悪いこととして避けられています。
今回の帯も葬儀の逆合わせを連想させてしまい、お祭りに相応しくないと思う方は多いでしょうね。
さらに今回の帯の模様は「吉祥紋様」といい、おめでたい図柄として伝統的に好まれてきたもの。おめでたい図柄を逆さまにするというのは不吉だ、ということですね。

まあそんなのは知らなければ気にならないし、また気にしすぎるのはどうかとも思いますが、やはりそうした伝統的な知識や意味は大切にしなくてはいけません。

そしてまたさらに危険なのは、一度印刷されて配布されると、それが次の見本というか、参考になってしまうことがあるのです。まさか伝統の祇園祭のポスターで、わざと帯を逆さまにするとはあまり考えられないため、その写真を誰かが着付けやイラストの参考資料にしてしまうと、次からは意図的ではなく、知らずとは言え間違いの連鎖がスタートしてしまうことになります。

以前ある方が書いた精進料理の本を読んでいたら、「精進料理では○○という教えがあり・・・」というような感じで、明らかに「えー、なにこれこの本文、おかしいんじゃないの?」という文が書かれていました。「まあ、100歩譲ってたぶん著者独特の考えなのかもしれないけど、きっとこれは単に不勉強で間違えたのだろうなあ」と思っていたら、一年後くらいに出た別の著者の本に、ほぼ同様の記述がありました。巻末には、参考書籍として例の本が書かれており、たぶん間違った内容をそのまま参考にして書いたのでしょう。そのうち原典は不明になるわけで、こうして間違いが広まってしまうのはとっても残念です。
少なくても今回のポスターの場合は、せめて注記というか説明文が必要だったと思います。説明を載せることができないのであれば、そうした冒険は避けた方が良かったのでは、と思います。

さらに、こうした考え方は、撮影や出版だけでなく、料理でも同様だと思います。
たとえば私が永平寺東京別院の料理長だったとき、お参りの方にもてなしの料理を出す機会がたくさんありました。当然食べる方は「ほーこれが永平寺の伝統料理かー」と思って食べるわけですから、永平寺の伝統と慣例を踏まえた料理を出す必要があります。私の個人的なアイデア料理などは、献立に入れるとしても1,2品が限度でしょうね。しかもそれは食事の席に立ち会って説明などができる場合に限られます。
永平寺や曹洞宗というような、公式の名を背負って調理する場合と、一個人として活動する場合は立場がまったく違うわけです。

たとえばこのブログは完全に私の個人的な発表の場ですから、伝統的な精進料理から、前衛的試作品まで、いわば好き放題やっていいのですが、これがもし曹洞宗の公式サイトや永平寺の名を冠するサイトであればそういうわけにもいきません。

また一個人としての活動であっても、充分な報酬を得て引き受けた仕事であれば、クライアントの意向も重要になってきます。

葬儀や法事などもそうですね。基本の式次第は当然ありますが、実際の進行は住職の裁量に任せられています。どういう構成にするか、長さはどうするか、どれくらいお経を読むか、という部分は僧侶によってほんとさまざまです。
私なども、葬儀では見ている人にもわかりやすいように現代の言葉に一部言い換えたり、解説を加えたりしながら進めます。しかしまるっきり自分流でやるわけではなく、難しいことばをあえて残したり、崩すバランスには気を使います。
結局は、参列者がどう受け取るかどうか、またその場の空気やシチュエーション次第ということですね。
たとえばいきなり和尚が3回忌供養の法事で踊りを踊り出し、「これは供養の踊りです。お経もいいけど踊りでも供養になるのですよ」と打ち合わせも無しで、檀家さんの法事でやってしまったら、受け入れられて喜ばれるかどうかは微妙だと思います。

結局は、自分個人の考えや、試み、冒険というのをどの程度入れるべきかの裁量、そしてそれを入れて良い場面なのかどうかの判断、何事もその辺が難しいですね。

そしてまず第一に必要なのは、基本をしっかり抑えるということ。
あくまでも伝統に裏打ちされた基本があり、そのうえで崩すのでなければいけないと思います。

最後にある音楽家の言葉を紹介します。
「セオリーを知る者はまた、セオリーからの華麗なる逸脱を許されている」

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