なんたる侮辱

昨日、この本の主旨を3点にまとめましたが、著者がご自分のお寺で行った一連の改革について抗議したり反対するつもりはないのです。
ですから既得権益を守りたい旧体制の悪徳住職が、改革者の足を引っ張ろうするような構図ではないことをまず明記しておきます。

じゃあ何が不満なのか。それは「他のお寺や和尚さんに対する、度を超した悪口の連続、あまりにも他の和尚さんを馬鹿にした記述」これにつきます。

自分の功績を紹介する際に「今までの業界の常識とはここが違います!」と強調する書き方はよくあることです。また「あまりにも私の功績が凄すぎて、周囲からうとまれています。出る杭は打たれるものですね」のようなもっていきかたも同様です。
そうした宣伝の仕方は私も使う事がありますし世間一般でもよく使われますが、当然ながらその書き方には限度があり、度を超せばそれは重大なモラル違反となってしまいます。

「おいしいラーメン屋」これではインパクトがありませんね。
「地域で一番おいしいラーメン屋」これなら注目と関心が集まるでしょう。良い宣伝文句です。

「この地域の他のラーメン屋は不衛生、値段が高い、まずい、混んでいて狭い店ばっかりですよ!それに比べてうちの店はきれいで安くておいしくて待ちません!」
こんな宣伝する非常識な店がありますか?もし私が同業者ならクレームしますね。
ですからこの記事を書いているのです。

曹洞宗では、出家者が日頃守るべき基本的な戒律の七番目に「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)があります。自讃は「自分を誉め讃える」毀他は「他人をそしる」という意味で、これに「不」つまり「~しないこと」がつきますので『自分の自慢をし、他人を悪くいうことなかれ』という意味になります。
この本、徹頭徹尾この不自讃毀他戒を犯していると私は思います。

そしてさらにいえば戒律の十番目は「不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)」つまり「仏法僧の三宝を傷つけることなかれ」という意味ですが、僧というのは僧伽(さんが)のことで、仏法修行に励む仲間を指し、「教団」と言い換える事ができるでしょう。この本はたくさん教団や僧侶の悪口を書いており、この戒律をも犯していると思います。
戒律うんぬんは抜きにしても、モラルとしてよろしくないとは思いませんか?
そもそも、ご自分の功績を書籍で紹介したいのであれば、他人の悪口など書かずに、純粋に業績だけを書けばよいのです。自分の業績を高めたいがために、他人を平気で踏み台にする、そういう手法ははっきり言って汚いと思います。
まあ要するに「うちのお寺はこんなに良い寺ですよ~。それに比べて、世間のお寺はどうですか、こんなに悪いことしてますよ~。さあ皆さん乗り換えるなら今ですよー」というスタイルで書かれた本です。
たとえば商店街で買い物をしようとしたら「あっちの八百屋の野菜はしおれてるしマズいよ、あんなの買ったら腹壊すよ!うちの野菜はうまいよ!うちで買いな!」みたいなこという八百屋があったらどう思いますか?
この本には、まず「世間の住職達は高いお布施を寺の財産とせず、自分でもらってしまい、高級車に乗り、ギャンブルやゴルフ三昧で、酒びたり」というような記述が各所に書かれています。
もちろんそうしたご住職も世の中にいて、檀家さんから困った目でみられているのは事実でしょう。

しかし、私が住む地域には曹洞宗のお寺が三十ヶ寺弱あり、ゴルフ場は車で10~20分の近くに何カ所もありますが、ゴルフをなさる住職はたぶん一人しかおられません。
しかもゴルフをするのがどうして悪いのでしょう。その方は立派に日頃のおつとめをなさっておられる真面目な住職で、空いた時間に健康と、地元のつきあいのためにゴルフをなさっておられる程度です。本当に、そんなにたくさんの和尚さんが本業に支障をきたすほどゴルフにのめり込んでいるのでしょうか?また、ゴルフって悪いことなのでしょうか?

高級車に乗っておられるのは当地では一ヶ寺だけです。全国的な高位のお役をつとめておられる高僧で、立場上全国的な公式な場に役職としてお出ましになられる際に、お使いになっておられますが、近所に用事がある時はふつうの国産車です。ご自身で運転するわけではありません。たとえば一国の大臣が、他国を招く公式行事で古い軽自動車に乗るわけにいきますか。やはり世間的な体面というものがあると思います。
それ以外の住職は、うちの地域ではそんな高級車なんぞ乗っていません。
永平寺東京別院で修行していた頃、全国から僧侶が集まる機会がありました。そうしたときに駐車場をみると、確かに超高級車に乗っている和尚さんもいましたがそんなの本当にごく一部ですよ?
東京のとても立派なお寺の住職でも、普通の車に乗っておられる方もたくさんいます。

この本の中に、
「(長野県の)善光寺じたいは単立ですが、その山内に天台宗と浄土宗のお寺がいくつも寄生しています。善光寺は人もお金も集まる日本有数のお寺ですので、その恩恵にあずかる住職達は、たいへん贅沢な暮らしをしています。駐車場には、驚くような高級車が並んでいるそうです。」
という記述があります。
「寄生」だなんてなんという失礼で品の無い言葉を使うのか、と思いますがそれはおいておき、善光寺の住職さん方が本当に贅沢な暮らしをしているのか、実際に調べて確認した上で書いているのでしょうか?「高級車が並んでいるそうです」という文をみると、「~そうです」と伝聞調で書かれていますからおそらく自分で確認したのでは無いと思われますが、こんな失礼なことを、自分でみたわけでもないのに名指しで書くなんて信じられません。

「世間の和尚はカネ、女、酒、ゴルフ、高級車」というのも著者の勝手な思い込みが多いのではないでしょうか?少なくても、うちの近くにそんな和尚はいないんですよ。くどいようですが、本当にそんなひどい和尚さんが世の中のほとんどなのですか?

もちろん、実際にはこうした和尚さんも世の中にはいるでしょう。
どんな組織でも、「全体の二割が優秀で六割が普通、一割は個性派で残りの一割は出来が悪い」というのが通例です。その出来の悪い一割の人を見て、全体がそうであるかのように書くのは本当に失礼です。
たとえばお医者さんでも学校の先生でも、そうでしょう。中には犯罪を犯してテレビで報道されたりする方もいますが、だからといって世の中全員のお医者さんや先生がそうだと決めつけますか?
立派で尊敬できるお医者さんも、学校の先生もたくさんおられます。
おかしなことをする人は目立つから印象に残るでしょうけど、立派で真面目な方がほとんどでしょ?違うのかなあ。
どうして一部をみて全体を貶めるのでしょうか。

そういう和尚さんがいるからといって、一生懸命頑張っている全国の和尚さんをここまで悪く言うのが許せません。そして「私はこれだけ立派ですよ!」というもって生き方。頭が痛くなります。
いまどきの若い和尚さんの多くは、世間が厳しい目でお寺を見ている事くらいよくわかっています。だからこそいろいろと新しいとりくみを工夫したり、ボランティアに励んだり、みんな一生懸命やっている中でこういう昔の定型イメージを持ち出すことに憤りを感じます。

もちろん、私自身も未熟な部分や至らないもたくさんあり、自分では気が付かないうちにお檀家さんに嫌な印象を与えている悪い部分はあるでしょう。残念なことですし、直していかなければと思いますが、そんな完璧な人間なんてそうすぐには無理でしょう。
和尚さんだからって、足りない部分がある人だってそりゃあいますよ。
ですが、酒とゴルフと高級車という、ダメ僧侶の定型みたいな和尚さんと一緒にされるのは勘弁ねがいたい。

ここまでが私がこの本で抗議したい部分の概要です。
ここから先は、どんな悪口が書かれているのかを一部引用しておきます。皆さんどう思われますか。「  」内が引用部分、→以降は私の意見です。
(曹洞宗の大本山の)いまの貫主(※正しくは貫首と書きますので誤字?)は七十五歳以上の高齢です。
公務員のように、年長者の上がりの職になってしまっていますから、およそ信仰の象徴というには、もの足りません。ただのおじいさんです。宗派全体に発信していくエネルギーもありません。「貫主になって死んでいく」ということでは、無責任だと思います。生き仏ではないのですから。これでしたら「いままさに修行中」という若い人をおいたほうが、よいのではないでしょうか。
→こんな失礼な事かくほどご自分に自信があるのでしょうか。
禅師様に「ただのおじいさん」だとご自分が感じるのは勝手ですが、本に書いて公表することでは無いと思います。

「ダメ住職増殖中」
親がわが子に家業を継がせたがるのは、世の常です。とくに先代の奥さん、つまりおばあちゃんがその家業継承を熱心にすすめたがります。住職である息子の考えや本人の考えは横において、わが夫が築いた家業を、いとしい孫に継がせたいと考えるのでしょう。先代の奥さんの発言は、檀家や地域社会にも絶大な影響力を持ちますから、世襲住職の成立に異論をはさむ余地はありません。
すると逆説的になってしまうのですが、あまり優秀な大人に育ってもらうと困るわけです。「ほどほどにおバカさん」であるほうがいいのです。

こうしてお寺の長男というものは「家業を継ぐことでどれだけのメリットがあるか、いかに人生の勝者となれるか」を幼少のころから教え込まれます。
おばあちゃんから「学校の勉強ができなくたって、お寺の仕事を手伝えばいい」といわれて甘やかされるわけです。

というわけで修行にも学問にも興味がなく、檀家を低く見て、世の中のしくみにもまるで疎遠な「ダメ住職」が増殖するのは仕方のないことかもしれません。

昔は、お寺の長男といえばほぼ例外なく「できる子」といわれていたものでした。ところがいまや小学校のクラスでデキがよくない生徒といえば、住職家の子なんてことも珍しくなくなりました。
(裏表紙帯)将来に跡を継ぐ住職の息子が、学校でビリの成績

→珍認識に驚きを通り越して呆れました。
好きでビリの成績を取る子供がいるでしょうか?
人を馬鹿にする論理にもほどがあります。

「永平寺の修行」
「永平寺で修行した」という略歴が、一般社会で話をするときに、大きな武器になります。この「箔」が欲しいがために、多くの修行僧が永平寺に向かいます。

しかし、いまどきの修行なんて、永平寺といっても、死ぬほど厳しいものではありません。大所帯であるぶん、人間関係も少しは希薄になりますから、かえって気楽だともいえます。

(永平寺の参拝者の中には)「精進料理を楽しみにしてこられる方もいます。味は二の次、ある程度腹が満たせればよいだろうというわけにもいきません。これがたいへんな数ですから、典座とは名ばかり、実態は食事係なのです。

旅館の料理人や仲居のような仕事をするわけです。

こうした仕事も、広い意味では修行なのですが、体よく手として使われているともいえるでしょう。

→こんなレベルで修行を理解する人が増えたら大変だと思います。
突っ込みどころ満載ですが、少なくても、私にとっては「死ぬほど厳しい」価値ある修行でした。
「ダメ坊主はチェンジしよう」
「一度釣った魚に餌をやらない」といいますが、はるか江戸時代の初期に釣ったきり、檀家は、お寺にとって永遠の搾取の対象でしかないのです。
葬儀の際に、何十万円ものお布施を包んでもらって、ごつい金時計をして、高級車で乗り付けるような菩提寺の住職を呼ばなくてはならないのは、またく悲劇としかいいようがありません。

また、冴えない感じのお坊さん、すっかり耄碌したお坊さんが来て、寝言のようなお経をモゴモゴされるのも、たまったものではありません。

同じお経を読んでもらうんだったら、やはり美声の方がいいですね。

→ここまで言うからにはご自分ではお布施は一切いただいていない、というなら理解できるのですが、結局名目を変えてご自身もお布施や会費に準ずるお金は受け取っています。そしてその額をみるとうちのお寺よりはるかに高いという(笑)
また今は若くて声がよく説法もうまくても、やがて誰でも年を取れば声が出なくなり話もつっかえるようになってしまいます。お年を召した先輩僧侶に対してあんまりな言い方です。

私は以前に○○県○○宗務所の人権委員会のメンバーでした。ここには、地域の教区長とそれに準じるクラスの住職たちが属しています。年齢は、五十歳前から五十代といった人たちが多く、若くて理想をもって臨んでいるような人は呼ばれません。
なぜなら、こういった「○○委員」というのは名誉職だからです。肩書きです。何かの機会で略歴をまとめるときに、「○○県○○宗務所人権委員」と書けるわけです。政治家といっしょです。「人権のことをおやりですか。ご立派ですね」といわれてニンマリしています。
ところが当人は、人権のことなんて、ほとんど知らないでしょう。彼らにとって委員会や会派の会合は、見栄のため、仲間内の情報交換の場、遊びの場にあるのであって、学びの場、実践の場ではないからです。ですから、形だけの勉強会や講習が終わると、さっそく飲みに出かけてしまいます。あるいは、週末のゴルフ談義に終始することもありました。

→○○の部分は、書籍では実名が書かれています。
こんなこと書かれて実際のその地域の僧侶は悔しくないのでしょうか?
名誉のために明記しますが、少なくてもわが群馬県ではいい加減な○○委員はありません。
百歩譲って、研修の後の空き時間に談笑しながらゴルフの話をする人もいるでしょうし、慰労会もありますがそんなのは世間のつきあい程度の範囲であって、主目的である会合や委員会はきっちり真面目に行い、研鑽し勉強を深めています。
遊びのために委員会に入る、など本当に遊びたいなら委員会に入らずに勝手に遊ぶでしょ。
※なおこの記事はしばらくしたら削除する予定です。あしからず御了承下さい。

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コメント

  1. 白猫 より:

    いつも精進料理参考にしてます。總○寺安居の五十代です。

     今までコメントしたことはありませんが、今回の記事を読んでコメントせずにいれませんでした。
     気合いの入った本文から、お怒りがビンビン伝わってきました。

     こういう著者の方って自分の業績に酔ってるんだと思います、俺のがんばりスゲーだろ?みたいな。それで回りが見えなくなってるんでしょう。
     拙僧は特に特技も無く平凡なごく普通の僧侶ですが、それでも人に後ろ指さされることなく真面目にやっているつもりです。
     世間は破戒僧ばかりみたいな書き方は本当に失礼だともいます。
     
     どこのお寺の住職なのか、拙僧も本を立ち読みしてチェックしてみます。買うのは嫌なので立ち読みです。

     的外れな批判は放っておき、今後のご活躍を期待しております。

  2. ゴルフ好き坊主ですがなにか? より:

    言論の自由だからどんな事書いて本を出しても自由だけどさ、他人に嫌な思いをさせてまで原稿料もらって欲しくないね。
    俺は坊主だがゴルフ良く行くよ。
    別に檀家に隠していない。隠すようなことではないし。
    昭和中期頃はゴルフは上流階級(笑)の御趣味だったかもしれないが、今どきそんなのは時代錯誤も甚だしい。
    クラブセットも手軽に買えるしプレイフィーも数千円ですよ?
    なぜゴルフを槍玉に挙げるのか。
    たくさんあるスポーツの中でゴルフだけを差別しているのですか?
    それとも、ロード用自転車はウエアーも含めれば百万クラスですが、サイクリングなら良いのですか?野球は?スキーは?アイススケートは?お金がかかるスポーツを坊主が楽しんだらダメなのですか?
    ではどうしてダメなのですか?
    ではその競技を好む、坊主以外の一般世俗者にもそんなのやめなさい、と説教するのでしょうか?しないとしたらどうして坊主だけダメなのでしょうか。
    おっと、つい興奮しましたがこれをブログ管理任様に言っても仕方ないですね。著者に言うべきですが、お許し下さい。
    私は今月もやるべき事を精一杯務め、僅かな空いた余暇に近くのコースの割引ディに堂々とゴルフを楽しみに行きますよ。
    このブログは多くの方がみておられるでしょうが、私がゴルフして何か不快に思う一般の方おられるようなら教えて欲しいです。

  3. 典座和尚(管理者) より:

    白猫さま
     コメントありがとうございます。
    ご謙遜なさって平凡とおっしゃっていますが、平凡かどうかを決めるのは周囲の方々だと思います。無難に、真面目に、長く続けることが実は一番難しいわけで、堅実で地味でも精一杯なさっている方であれば必ず周囲から良い評価をうけるものだと思います。
     そうした姿を知らないくせに一方的に悪口を浴びせられるのはたまりませんよね。
     同意して下さったことに感謝申し上げます。

    ゴルフ好きの和尚さま
     私はゴルフコースに出たことは一度もないのですが、確かにいまやゴルフが特権階級の高級スポーツだというのは時代錯誤だと思います。本業をおろそかにして趣味にばかり没頭するなら、ゴルフであろうが何の趣味であろうがいけないわけで、ゴルフを名指しするのは間違えてますよね。
     それとも、著者は、僧侶であればたとえ余暇であってもゴルフなどの趣味をしてはならん、というのでしょうか?
     まあ厳密にいえば好ましくないのかもしれませんね。ゴルフもスキーもサイクリングも、僧侶は一切してはならぬというのは私は賛成しかねます。僧侶とはいえ人間、ほどほどの息抜きは必要ですし、趣味で人間の幅が広がるということもあると思います。
     本業に迷惑をかけない範囲で楽しむなら悪くないと思いますけどどうなんでしょうかね。

  4. 哲宗 より:

    はじめまして。
    本を売るには過激な事を書かないと売れないのかもしれないが、他人をバカにしてまで自分の宣伝をするなどというのは僧侶以前に人間として間違えとる。
    祖山での修行は報恩行であり各寮の公務がそのまま仏行であるのに体よく使われているだの実際は食事係だの、大学院まで出てそんな初歩的な事を間違えてどうするのか、もしやわかっていてわざと書いているのか。
    地元宗務所の悪口のみならず貫首猊下のことまで根拠不明な記載をするとは、そこまで書くなら宗門を抜けて単立したら良いと思うが。
    それほど自分が正しくて他人を見下すほどの偉才なら無理して宗門に属している必要はあるまい。
    典座老師のお怒りごもっとも。よくぞ書いて下さいました。

  5. 通りすがりの檀家 より:

    檀家が払ったお布施でゴルフ行ってて偉そうなこというな
    ゴルフやりたいなら坊さんやめればいいだけ
    釈尊がゴルフ認めてたのか?
    あれこれ言い訳して見苦しい、高級車も駄目なんだから歩けよ

  6. 美樹 より:

    いるかどうかでいえば、実際います。

    同級生が坊さんやってるけど外車のオープンカー乗っててうるさい爆音響かせて趣味悪い改造やシール貼って威張ってて、いつでもスマホゲームやってて感じ悪い。

    お経を暗記していなくてふりがなをふってある経典を読んで葬式やってる。墓地でお経読むときにはオーケストラが使う譜面台のようなものを立てて経典本を読んでいて、風で譜面台が倒れてお経がストップした時にふりがなを見た人がいるらしいです。

    うちに来る坊さんは真面目で堅物で良い人だけど、同級生がお葬式した人はたぶん成仏できてないと思います。

    料理好きなので良くこのブログ見てるけど、ブログ主さんはしっかり頑張ってる坊さんなんだから他の人が何言われても気にしない方が良いんじゃないかと思います、人は人、自分は自分。
    これからもためになる料理を楽しみにしてます。

  7. 北国の猿 より:

    こんばんは、知り合いに考えさせられるブログがあると聞いて見に来ました、北海道在住の宗門寺院副住職です。
     以前から噂は聞いておりましたが、ブログを拝見するのは初めてで、綿密な文章とおいしそうな精進料理に感銘しました。日頃のご努力に敬意を表します。御著書も早速注文致しました。
     さて本当にこんなことがあ書かれているのですか?
    僧侶の子供は学校でビリの成績だなんて、筆者は何を根拠にそう書いているのでしょうか。単に本の注目を浴びるためのリップサービスだとしたら最低な手法です。 僧侶の子供だからといって変な目で見られる筋合いはないし、一番でもビリでも仮に統計があったとしてもそんなことは個性の問題です。
     自分の言葉で他人が嫌な思いをしたり悲しんだりするような法話は失格だと教わりましたが、どんな立派な改革をしているのか知りませんが何の関係もない全国の僧侶達に嫌な思いをさせるようではその改革の価値も疑わしいですね。
     下のコメント欄の方が、お経を覚えていない僧侶の例を出していますが、朝課等では暗記していて一人で読めても、慣れないうちは檀家さんの前で読む際は緊張したりして間違えたりしないように念のためお経本を開く場合も多いです。記憶力が良い人もいればそうでない僧侶もいるので、そこまで厳しく見られるのはどうかと思います。風が吹いて見台が倒れれば読経が止まるのはやむを得ないと思いますよ。フリガナは、入門した際にいただく経本にはふってあるのです。小学生の頃から使う人もいるので。それを大切に使っているだけで、別にフリガナを読んでいる分けではないと思いますよ、その同級生の方も。
    僧侶に完璧を求めすぎる風潮はどうかと思います。
    僧侶も修行中、共に仏道を成ぜんことを願っています。 

  8. 典座和尚(管理者) より:

    皆さん、コメントありがとうございます。

    哲宗さま
     確かに、そこまで他を悪く言うなら単立化すればいいのに、と私も思いますが、それは著書の中で否定しています。「組織には問題が多いが、道元禅師は尊敬している」というような理由が書かれています。しかしそれならばなおさら単立化した方がご自身のためだと思うのですが。宗門に自らの意志で留まるのであれば、このような他寺院へのいわれなき誹謗は許されないと思います。根拠ある批判なら良いのですが。

    通りすがりの檀家さま
     貴重な御意見、ありがとうございます。お釈迦様は極端なことは避けなさいと教えています。車に乗らず歩けとは現代では極論ではないでしょうか。なお誤解が無いようにいえば、お布施でゴルフに行くのは当然駄目ですが、そのようなことをする人はごく一部だと思います。

    美樹さま
     ご指摘の通り、いろいろなお坊さんがいることは承知しています。しかしご自分が見聞きすることが全てではないと思います。
    美樹さまの家に来るという、真面目なお坊さんに対して、「私の同級生の和尚さんはお経も覚えてないんですよ」と言ったところで何かお互いに得るものがあるでしょうか?
     また、お経を覚えるのが苦手でも、だからといって悪い和尚さんであるとは限りません。いろいろな面を見てあげて欲しいと思いますがいかがでしょうか。
     気にしない方が良いというのも一理あるのですが、間違っていることを見逃していたのでは認めてしまうことになります。僅かな抵抗ですが、反論しておきたいのです。
     立派な和尚さんはたくさんいます。

    北の猿さま
     お褒めいただき恐縮です。まだまだ未熟なブログですが、今後もご指導いただければ幸いです。
     確かに子供の成績のことは呆れて開いた口が閉じません。
    おっしゃるとおり、僧侶もみな完璧ではなく仏道を成ずるために少しずつ努力しているわけで、その努力の中途にあるとき、それがそのまま仏であるという宗旨をありがたく信じて精進していきたいと思います。
     一生懸命努力している人をバカにすることは私はできません。
    墓地に譜面台を持参してまで読経する方は、暗記が苦手かもしれませんが自分なりに努力していると思います。
     そうした僧侶を軽んじて良いのでしょうか。

  9. 紅葉 より:

    いつも精進料理記事見てまけど、この記事はいつになく盛り上がってますね。
    私は長野に住んでいますが、県内に親類の和尚さんがいます。
    内情をよく知ってますが、お寺は小さくてボロボロだし、お便所も昔ながらの汲み取りトイレで、車も中古の型遅れを10年以上乗ってます。
    まあひと言で言えばビンボーです。
    でも檀家さんとは仲良しでお寺の奉仕作業にはみんなで箒や雑巾をもって来てくれるし、お昼には楽しそうにおにぎりを食べます。
    聞いてみましたが、長野県内でも大きな市の中に何軒かは裕福なお寺もあるけれど、ほとんどのお寺がやっとやりくりするような小さいお寺のようです。

    難しい話はわかりませんけど、典座和尚さんが怒っていることだけはよくわかります。
    戒律を無視して良くない行動をする和尚さんもいると思いますし、みんながうらやましがるような外車を見せびらかす和尚さんもいるのでしょう。でもそれって以外と周囲にいないと思いませんか? 
    私の同級生のお寺の長男がいますがすっごく優秀です。

    何が言いたいかと言えば、世の中色々な人がいるということです。
    ですからこの本に書かれているような悪い和尚さんもいれば、普通の和尚さんもたくさんいるし、立派な和尚さんもたくさんいます。
    すくなくても私は親類の和尚さんを尊敬していますし、こんなおいしそうなブログを発表している典座和尚さんも素晴らしいと思います。

    この本で他の和尚さんを批判するあまりに悪口になってしまっているのなら、筆者の方は少し反省した方が良いと思います。
    人の悪口を書く本は売れるのだそうです。
    でもそんなことで売れてお金を儲けたら、自分が批判している相手と同じになってしまうことに気づいて欲しいです。

    親類の和尚さんは、お金は儲からなくてもやりがいはあるし毎日充実しているから満足してるって言ってました。
    結局は誰に何を言われようが、本人が満足するかどうかってことじゃないでしょうか。

    余計なことコメントしてごめんなさい。
    これからも精進料理記事楽しみにしています。