料理写真とわたし

以前、このブログで料理写真を撮るようになったきっかけを書いたことがあります。(2007年12月12日、14日、17日、19日の4回)

中学生のころから、写真が好きだった私。高校・大学時代もいつも小さいカメラを持ち歩き、なにかイベントがあるごとに仲間の姿などを撮って想い出を残したものです。高校生のときなど、進級する前にはクラス全員の顔を(男子校ですので変な目的はありませんよ・・)想い出としてカメラに納めたものです。

写真好きといってもその方向性は人それぞれで、カメラ自体の性能に凝る方もいます。しかし当時の私はカメラ自体にはあまり興味がありませんでした。興味がないというより、当時の私にとって本格的な機能を備えたカメラ機材はあまりにも高価で、たとえ機材に興味があったとしてもとても揃える金銭的余裕がなかったという方が正確です。
当然ながら、まだカメラ付きの携帯電話なんてありませんでした。量販店などで数千円で買える、シャッターボタンしかついていないチープなフィルムカメラを愛用していました。
良いカメラを手に入れればもっと美しい写真が撮れる、というのはなんとなくわかっていましたが、機材にお金をかけるよりは、とりあえず画像が多少鮮明でなくても、友達の笑顔が写ってさえいればそれで充分だったのです。それに、当時はデジタルカメラと違い、撮れば必ずフィルム代と現像代が必要でした。機材にお金をかけず、たくさん撮って現像にお金をかける方が好きだったのです。

つまり大学を卒業して永平寺に上山した時点で、カメラ歴だけはもう10年のベテラン?だったわけです。(もう今では25年以上の大ベテランです??)

ところが、機材に興味がなかっただけに、どんな場面でもシャッターを押すことしか知りません。カメラをどう操作すればどういう写真が撮れる、という知識がまったくありませんでした。(そもそもカメラが安物すぎて、ボタンがシャッターしかついてないのだからどうしようもないのですけど)

技術と知識というものは深く関連しています。わかりやすいように、ちょっと別のたとえ話をします。私は学生のころ、クラシックギター部に所属していました。もともと熱中しやすい性格なので、部活動だけではあきたらず、クラシックギターの学校にも4年間通い、それなりの曲を演奏できるようになりました。

ギター初心者のころというのは、上級者の演奏を聞いても、まあ確かにうまいのはわかるのですが、何がどううまいのかはわかりません。そして、バッハやモーツアルトなどのレコードを聴いても、良い曲だということはわかるのですが、何が良いのかはサッパリわからない。
ところが、自分でギターを練習しはじめて、たとえば先生に「音がとぎれとぎれだね、もっとなめらかにつなげて弾けるようにしましょう」と課題を与えられると、そこではじめて自分の音がとぎれとぎれだということを自覚でき、他の人の演奏を聴く際にもそこに意識がいくわけです。

やがて課題を克服しようと努力するうちに「そのためには弦を押さえる左手と、弦をつまびく右手のタイミングを合わせないといけないな」とか「もっと早く左手を移動しないとだめだな」と気づき、「先輩の演奏は確かにそれがうまくできているから音がとぎれずなめらかにつながっているんだなあ」と実感するわけです。

そしてその課題をクリアーするころには、先生から「じゃあもっと音をきれいに出せるように」「もっと大きな音や小さな音をコントロールできるように」「テンポを自由に変化できるように」というような、段階に応じた課題を次々に与えられることによって、どこに注意を払って演奏すべきかが少しづつわかってきます。表現するために必要なテクニックはなんなのかが徐々にわかってくるわけです。このへんは、独学ではなかなか難しく、やはり体系的な指導を受ける必要があると思います。そしてやがて他人の演奏を聴く際や、バッハのレコードを聴く際にも、初心者のときにはわからなかった素晴らしさが、より深く味わえるようになるのです。
(もちろん、自分で弾かなくてもクラシックを味わうことはできますが、ある程度自分で演奏することによって、より深く、幅広く味わえるようになる、と思うのです)

さて、話をカメラに戻します。
要するに、カメラの機材に興味がなかった私は、どう操作すればどう撮れるかという技術的な知識を全く知らず、同時に「何が良い写真なのか」「どういう写真は根本的にマズイのか」という視点、つまり「見る目」をまったく持っていなかったのです。
これでは、いくら年数だけ長くても、良い写真を撮ることができるはずありません。

この写真をみてください。
わたしが永平寺で修行中に、典座和尚(料理長)から献立の記録のために、作った料理の写真を撮ることを特別に許され、せっせと撮りためた写真の中から(比較的マトモなものを・・)選んだものです。

構図や配置の問題もさることながら、近くでフラッシュを焚いたせいでがんもどきに光があたりすぎてテカってしまい、料理のディティールが伝わってきません。あるいは、文字で「がんもどき」と記録しておかなければ、一体これが何なのかさえわからない可能性があるくらいです。(まあ当時は暗い料理場で撮るにはフラッシュをOnにするしかなかったのですが。)

今私がこの写真を見れば、技術的にどこがどうまずいのかが、よくわかります。

つまりクラシックギターの例でお話ししたとおり、現在は私が写真を見る際の技術的な「視点」が当時より幅広くなり、レベルが高まった、つまり「見る目が養われた」ということになります。

これを撮ったのはもう15年も前です。当時に比べ、今はカメラや写真がとっても身近になりましたから、おそらくみなさんもこの写真を見たら「これはさすがに・・お世辞にもうまくはないですな」と思うはずです。しかし、当時の私はこの写真で良いと思っていました。つまり、この写真のどこがどうまずいのかがちっともわからなかったのです。まずい点がわからないから、こういう写真をジャンジャン撮っていたのです。(続く)

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