彼の来処を量る

以前の記事で、先月末に古巣永平寺別院の御征忌法要に随喜してきた話をしました。

御征忌ともなると、典座寮(台所)ではてんてこまいの大忙しです。

毎食400人分の食事に加え、「雲上膳(うんじょうぜん)」とよばれる高僧の食事や、各県代表の法要導師(焼香師(しょうこうし))のための上膳など、同時進行で数種類の食事を作るのですから大変です。朝は他の部署よりもかなり早く起床し、ほとんど休憩なく厨房を行ったり来たりして汗を流します。食事時になると、急に手伝いの僧が増えたから食事が足りない、予備はないかとか味噌汁をもっとくれとか、まさに戦場と化します。夜9時を過ぎてようやく控え室に戻ると、立ちっぱなしだった足の痛いのなんの。

しかしそれもまた尊い役割ですから、他者に譲ることなく精進するのみです。

 そうして苦労して作った料理、正直言うと毎回百点満点のできばえというわけにはいかないのが現実です。まだ技術的に未熟な雲水を中心として、典座寮に手伝いに来ている随喜寺院さんも日頃はそれほど料理をしていない方もおられるし、その上はっきり言って調理場の機能限度を超えた人数分を作るわけですから、食事時間に間に合わせるのがやっとの場合も少なくありません。

まさに毎食冷や汗をかきながらやっているのです。


彼の来処を量る

↑私が担当した雲上膳
そうした台所の苦労に少しでも思いを馳せて食べている方がどれくらいいるでしょうか。

時間になれば食事が用意されて当然、あるいはお金を払ったのだからあたりまえ、という考え方では精進料理の価値は薄れてしまいます。

ああ、きっと苦労して作ったのだろうなあ、ありがたいことだ。

と調理場のことを考えたならば、たとえ少々不出来な食事であっても、その気持ちがそれを補っておいしくいただくことができるのです。

禅道場で食事の際にお唱えする「五観の偈(ごかんのげ)」の第一に、

「一つには功の多少を計り 彼の来処を量る」

(ひとつにはこうのたしょうをはかり かのらいしょをはかる)

と唱えます。

「彼の来処を量る」とは、

「今目の前に並んだ尊い食事ができあがるまでに、どれほど多くの手がかけられ、苦労を経たのか考えよう」という意味です。

もちろん、食事ができあがるまでには、調理場の苦労だけではなく、食材の生産者の汗からはじまり、運搬業者や問屋、小売店の手を経てようやく調理場に運ばれるわけです。そうした多くの方々の汗と苦労に思いを馳せることにより、いかにこの食事が尊いものであるか、その価値をあらためて認識するのです。

しかしこれがなかなかできないことで、ややもすると影の苦労など気にもせずに漫然と食事を口に運んでしまいがちです。

先の別院御征忌中、ある随喜寺院(手伝いの僧)が台所に立ち寄りました。

その方は私の前に別院の台所責任者を務めた方で、今回は法要係を手伝っていました。

法要係も実際には休む時間がほとんどないほど大変な時間進行の中、わざわざ台所に来て「いやあ、典座寮の皆さん大変ですね、食事おいしく頂戴しております。どうぞ頑張って下さい」とおっしゃいました。

その一言が、典座寮寮員をどれだけ励ましたことか。

なかなかできることではありません。

お互いに忙しい中、相手の苦労、他の部署の努力を思いやる気遣いの心と感謝の心。

これこそ「彼の来処を量る」の実践です。

みなさんも、普段の食事の際、作った方への感謝の気持ちを声に出してみてはいかがでしょう。母ちゃん、嫁さん、食堂のおばちゃん、そば屋のおやじさんに、「どうもごちそうさま、おいしかったよ」たったその一言で調理の苦労も吹き飛ぶことでしょう。

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