1月10日、11日と2日間にかけて、故宮崎禅師の密葬が大本山永平寺にて厳修されました。大恩ある宮崎禅師さまとの最後のお別れですから、新年の予定を縫ってなんとか参列することができました。
すでに永平寺には全国から多くの僧俗が集まっておりました。いずれ永平寺から機関誌「傘松」などを通じて公式に報道されるとは思いますが、本日都合がつかず参列できなかった方のために、法友たちから聞いた話や、本山発行の時報などを総合しながら、経過や密葬のようすなどを簡単に記したいと思います。
宮崎禅師さまは、昨年の秋ごろまではすこぶるお元気で、全国各地の寺で法要をおつとめになっておられました。私自身、9月には北海道の某寺で、10月には永平寺東京別院にて法要の末席に連なるご縁をいただき、直接元気なお姿を拝見しておりました。
宮崎禅師は、永平寺の貫首にご就任される前から、札幌の中央寺という修行道場の住職を務めておりました。永平寺貫首となられた後も、引き続き中央寺の住職も兼務していたため、12月になってからは中央寺に滞在されておりました。
ところが12月6日に発熱され、大事をとって入院療養なされました。下旬からお食事が細くなり、年明け5日早朝、薬石効なくついに御遷化されました。
↑ 故宮崎禅師の訃報を告げる門牌(永平寺龍門頭)
6日の夕刻には中央寺にて仮通夜の法要が営まれ、翌7日午前、ご出発前にお別れのお経が上げられ、御遺体は本山に向かい札幌を後にしたとのこと。禅師さまに常日頃随行している侍局一行に付き添われて、棺を載せたバスは陸路函館へ。函館からフェリーで青森を経て、東北道、磐越道、北陸道の1400キロ、一昼夜を超える長旅の末、禅師さまの御遺体は8日には永平寺にご到着、無言の御帰山となりました。
札幌から福井県の永平寺まではかなりの距離があるため、当初飛行機を使ってはどうかという案も実務者から出たものの、そうなると当然ながら、棺は機内の座席には入れられず、荷室にて空輸となってしまいます。禅師様のお棺を飛行機の荷室に乗せることだけはしたくないという、随行僧一同の故禅師さまに対する強い敬慕の念から、あえて強行軍覚悟の陸路行となったとのこと。同じ車中にて、随行者が片時も離れず付き添う中、故禅師の霊棺を乗せたバスは、福井まで走り続けたのです。禅師さまのお徳の高さが伺われる逸話です。
その後諸々の法要を経て、10日・11日の密葬儀となりました。
お寺の本堂にお参りしたことがある方はわかると思いますが、多くの場合、寺の本堂には中央北側に須弥壇があり、仏さまが奉られています。その須弥壇の方に向かって法要を行うことがほとんどなのですが、住職の葬儀の場合、須弥壇と逆の側、普通の本堂でいえば正面入り口を入ってすぐのあたりに祭壇を設けて、南側に向かって法要を行うのが本義とされています。
それはかつて本堂前の庭に薪でやぐらを組み、そこに棺を安置して告別式を行い、そのまま火葬にしたことに由来するとも言われています。そのため、南側に設けられた祭壇の上側には仮説のお堂のようなもの白木でが組まれるのですが、これを「火屋」(ひや)とも呼びます。
永平寺の法堂(本堂)に入り、故宮崎禅師さまの御遺影と御位牌が安置された火屋を
拝んだとたん、一瞬にして多くのことが思い返され、溢れる涙を抑えることができませんでした。下の写真は、密葬が始まる1時間前の様子です。すでに多くの僧や在家信者などで法堂はいっぱいです。奥の方に仏名が書かれた赤い布が下げられているのが見えると思いますが、その下にみえるお堂の屋根のようなものが火屋で、その下に祭壇が安置されています。(法要中は撮影が禁じられており、また撮影許可も受けていないため、当ブログでは法要前の待機時の写真を掲載しております)
↑ 法要1時間前、すでにいっぱいの法堂
前日から通して9人の仏事師(導師のこと)により、一連の法要が9つほど厳修されました。法要に際して、仏事師によって法語とよばれる漢詩がとなえられるのですが、故禅師の御遺影を前にして、法語中に感極まり声を詰まらせる老師もおられました。
密葬儀法要の核となる秉炬仏事(ひんこぶつじ)では、宮崎禅師の後を受けて永平寺貫首にご就任されたばかりの福山諦法(ふくやまたいほう)不老閣猊下がたいまつを拈ずると、法堂を埋め尽くした僧俗の間から、悲しみのすすり泣きが聞こえて参りました。
最後に喪主(そうしゅ)をつとめた永平寺の森監院老師から参列者へ経過報告と御礼の辞が述べられたのち、会葬者の焼香が行われました。
その後故禅師さまの棺は修行僧や関係者たちに担われ、葬列とともに「唐門」(からもん)からお出になったのち、多くの僧俗がお見送りをする中、霊柩車にて火葬場に赴かれました。
↑ 葬列とともに唐門を通る故禅師の霊龕 中央の黒い車が火葬へ向かう霊柩車
その後ろに小さく僧たちに担われた棺が見える
唐門は、永平寺をお参りするとき最初に目に入る有名な門で、杉の巨木に囲まれた、永平寺を代表する荘厳なる伽藍の一つです。この門は、永平寺に住職が就任するときなど、特別な時にしか開かないのですが、本年行われる三大尊の遠忌に向けて改修されたばかりでした。その唐門を、故禅師さまの棺は静かにお通りになったのです。
火葬ののち、夕刻に御霊骨は永平寺にお戻りになり、安位諷経・初願忌など諸々の法要がつとめられました。なお、本葬儀は後日あらためて行われるとのことです。
密葬儀に参列し、群馬に戻ってきた今も、まだ深い悲しみは癒えません。
しかしこの悲しみの中にあっても、故宮崎禅師さまから受けた多くの恩に報いんがため、できるかぎりの精進を続けていくことこそ、故禅師さまのお心にかなうものと信じ、精進していきたいと思います。
故禅師さまが残された遺偈(ゆいげ・死に臨んで人生最後の境涯を詠んだ漢詩)
慕古真心 不離叢林
末期端的 坐断而今
コメント
初めまして。
海外在住しております。いろいろな苦悩をかかえて、仏教で心を支えようとしている者です。
遺偈の意味を教えていただけませんでしょうか。
南無本師釈迦牟尼仏
南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師私の家の菩提寺は、曹洞宗です。宮崎奕保禅師様は、1仏両祖様、歴代永平寺貫主様の元に旅立ちになられた。宮崎奕保禅師様の冥福を1仏両祖様にお祈りいたします。
和尚様 はじめまして。
いつも拝見させていただいております。
和尚様のお書きになった精進料理のご本は私の宝物で、いつも手元において勉強させていただいております。
先日の、宮崎禅師様の御遷化は、私にとりましても大変なショックで未だ寂しい気持ちでいっぱいです。
(禅師様を日々の拠り所としておりました。)
いち早くご焼香に駆けつけたい気持ちで一杯でしたが、様々な事情でそれは叶わず、悲しみに暮れていました。
和尚様が、お葬式の様子や画像、また禅師さまの御遺偈までをここに載せて下さった事、どんなにか有難く感激したかしれません。
心より御礼申し上げます。
まだまだ悲しみは癒えませんが、それでは禅師様がお喜びにならぬだろうと考え、これまでお教えいただいた事を胸に刻み精進していきたいと思っております。
このようなご縁を賜りましたことを、心から感謝しております。
和尚様、本当に有難うございました。(合掌)
また、お邪魔致します。