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なんたる侮辱

昨日、この本の主旨を3点にまとめましたが、著者がご自分のお寺で行った一連の改革について抗議したり反対するつもりはないのです。
ですから既得権益を守りたい旧体制の悪徳住職が、改革者の足を引っ張ろうするような構図ではないことをまず明記しておきます。

じゃあ何が不満なのか。それは「他のお寺や和尚さんに対する、度を超した悪口の連続、あまりにも他の和尚さんを馬鹿にした記述」これにつきます。

自分の功績を紹介する際に「今までの業界の常識とはここが違います!」と強調する書き方はよくあることです。また「あまりにも私の功績が凄すぎて、周囲からうとまれています。出る杭は打たれるものですね」のようなもっていきかたも同様です。
そうした宣伝の仕方は私も使う事がありますし世間一般でもよく使われますが、当然ながらその書き方には限度があり、度を超せばそれは重大なモラル違反となってしまいます。

「おいしいラーメン屋」これではインパクトがありませんね。
「地域で一番おいしいラーメン屋」これなら注目と関心が集まるでしょう。良い宣伝文句です。

「この地域の他のラーメン屋は不衛生、値段が高い、まずい、混んでいて狭い店ばっかりですよ!それに比べてうちの店はきれいで安くておいしくて待ちません!」
こんな宣伝する非常識な店がありますか?もし私が同業者ならクレームしますね。
ですからこの記事を書いているのです。

曹洞宗では、出家者が日頃守るべき基本的な戒律の七番目に「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)があります。自讃は「自分を誉め讃える」毀他は「他人をそしる」という意味で、これに「不」つまり「~しないこと」がつきますので『自分の自慢をし、他人を悪くいうことなかれ』という意味になります。
この本、徹頭徹尾この不自讃毀他戒を犯していると私は思います。

そしてさらにいえば戒律の十番目は「不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)」つまり「仏法僧の三宝を傷つけることなかれ」という意味ですが、僧というのは僧伽(さんが)のことで、仏法修行に励む仲間を指し、「教団」と言い換える事ができるでしょう。この本はたくさん教団や僧侶の悪口を書いており、この戒律をも犯していると思います。
戒律うんぬんは抜きにしても、モラルとしてよろしくないとは思いませんか?
そもそも、ご自分の功績を書籍で紹介したいのであれば、他人の悪口など書かずに、純粋に業績だけを書けばよいのです。自分の業績を高めたいがために、他人を平気で踏み台にする、そういう手法ははっきり言って汚いと思います。
まあ要するに「うちのお寺はこんなに良い寺ですよ~。それに比べて、世間のお寺はどうですか、こんなに悪いことしてますよ~。さあ皆さん乗り換えるなら今ですよー」というスタイルで書かれた本です。
たとえば商店街で買い物をしようとしたら「あっちの八百屋の野菜はしおれてるしマズいよ、あんなの買ったら腹壊すよ!うちの野菜はうまいよ!うちで買いな!」みたいなこという八百屋があったらどう思いますか?
この本には、まず「世間の住職達は高いお布施を寺の財産とせず、自分でもらってしまい、高級車に乗り、ギャンブルやゴルフ三昧で、酒びたり」というような記述が各所に書かれています。
もちろんそうしたご住職も世の中にいて、檀家さんから困った目でみられているのは事実でしょう。

しかし、私が住む地域には曹洞宗のお寺が三十ヶ寺弱あり、ゴルフ場は車で10~20分の近くに何カ所もありますが、ゴルフをなさる住職はたぶん一人しかおられません。
しかもゴルフをするのがどうして悪いのでしょう。その方は立派に日頃のおつとめをなさっておられる真面目な住職で、空いた時間に健康と、地元のつきあいのためにゴルフをなさっておられる程度です。本当に、そんなにたくさんの和尚さんが本業に支障をきたすほどゴルフにのめり込んでいるのでしょうか?また、ゴルフって悪いことなのでしょうか?

高級車に乗っておられるのは当地では一ヶ寺だけです。全国的な高位のお役をつとめておられる高僧で、立場上全国的な公式な場に役職としてお出ましになられる際に、お使いになっておられますが、近所に用事がある時はふつうの国産車です。ご自身で運転するわけではありません。たとえば一国の大臣が、他国を招く公式行事で古い軽自動車に乗るわけにいきますか。やはり世間的な体面というものがあると思います。
それ以外の住職は、うちの地域ではそんな高級車なんぞ乗っていません。
永平寺東京別院で修行していた頃、全国から僧侶が集まる機会がありました。そうしたときに駐車場をみると、確かに超高級車に乗っている和尚さんもいましたがそんなの本当にごく一部ですよ?
東京のとても立派なお寺の住職でも、普通の車に乗っておられる方もたくさんいます。

この本の中に、
「(長野県の)善光寺じたいは単立ですが、その山内に天台宗と浄土宗のお寺がいくつも寄生しています。善光寺は人もお金も集まる日本有数のお寺ですので、その恩恵にあずかる住職達は、たいへん贅沢な暮らしをしています。駐車場には、驚くような高級車が並んでいるそうです。」
という記述があります。
「寄生」だなんてなんという失礼で品の無い言葉を使うのか、と思いますがそれはおいておき、善光寺の住職さん方が本当に贅沢な暮らしをしているのか、実際に調べて確認した上で書いているのでしょうか?「高級車が並んでいるそうです」という文をみると、「~そうです」と伝聞調で書かれていますからおそらく自分で確認したのでは無いと思われますが、こんな失礼なことを、自分でみたわけでもないのに名指しで書くなんて信じられません。

「世間の和尚はカネ、女、酒、ゴルフ、高級車」というのも著者の勝手な思い込みが多いのではないでしょうか?少なくても、うちの近くにそんな和尚はいないんですよ。くどいようですが、本当にそんなひどい和尚さんが世の中のほとんどなのですか?

もちろん、実際にはこうした和尚さんも世の中にはいるでしょう。
どんな組織でも、「全体の二割が優秀で六割が普通、一割は個性派で残りの一割は出来が悪い」というのが通例です。その出来の悪い一割の人を見て、全体がそうであるかのように書くのは本当に失礼です。
たとえばお医者さんでも学校の先生でも、そうでしょう。中には犯罪を犯してテレビで報道されたりする方もいますが、だからといって世の中全員のお医者さんや先生がそうだと決めつけますか?
立派で尊敬できるお医者さんも、学校の先生もたくさんおられます。
おかしなことをする人は目立つから印象に残るでしょうけど、立派で真面目な方がほとんどでしょ?違うのかなあ。
どうして一部をみて全体を貶めるのでしょうか。

そういう和尚さんがいるからといって、一生懸命頑張っている全国の和尚さんをここまで悪く言うのが許せません。そして「私はこれだけ立派ですよ!」というもって生き方。頭が痛くなります。
いまどきの若い和尚さんの多くは、世間が厳しい目でお寺を見ている事くらいよくわかっています。だからこそいろいろと新しいとりくみを工夫したり、ボランティアに励んだり、みんな一生懸命やっている中でこういう昔の定型イメージを持ち出すことに憤りを感じます。

もちろん、私自身も未熟な部分や至らないもたくさんあり、自分では気が付かないうちにお檀家さんに嫌な印象を与えている悪い部分はあるでしょう。残念なことですし、直していかなければと思いますが、そんな完璧な人間なんてそうすぐには無理でしょう。
和尚さんだからって、足りない部分がある人だってそりゃあいますよ。
ですが、酒とゴルフと高級車という、ダメ僧侶の定型みたいな和尚さんと一緒にされるのは勘弁ねがいたい。

ここまでが私がこの本で抗議したい部分の概要です。
ここから先は、どんな悪口が書かれているのかを一部引用しておきます。皆さんどう思われますか。「  」内が引用部分、→以降は私の意見です。
(曹洞宗の大本山の)いまの貫主(※正しくは貫首と書きますので誤字?)は七十五歳以上の高齢です。
公務員のように、年長者の上がりの職になってしまっていますから、およそ信仰の象徴というには、もの足りません。ただのおじいさんです。宗派全体に発信していくエネルギーもありません。「貫主になって死んでいく」ということでは、無責任だと思います。生き仏ではないのですから。これでしたら「いままさに修行中」という若い人をおいたほうが、よいのではないでしょうか。
→こんな失礼な事かくほどご自分に自信があるのでしょうか。
禅師様に「ただのおじいさん」だとご自分が感じるのは勝手ですが、本に書いて公表することでは無いと思います。

「ダメ住職増殖中」
親がわが子に家業を継がせたがるのは、世の常です。とくに先代の奥さん、つまりおばあちゃんがその家業継承を熱心にすすめたがります。住職である息子の考えや本人の考えは横において、わが夫が築いた家業を、いとしい孫に継がせたいと考えるのでしょう。先代の奥さんの発言は、檀家や地域社会にも絶大な影響力を持ちますから、世襲住職の成立に異論をはさむ余地はありません。
すると逆説的になってしまうのですが、あまり優秀な大人に育ってもらうと困るわけです。「ほどほどにおバカさん」であるほうがいいのです。

こうしてお寺の長男というものは「家業を継ぐことでどれだけのメリットがあるか、いかに人生の勝者となれるか」を幼少のころから教え込まれます。
おばあちゃんから「学校の勉強ができなくたって、お寺の仕事を手伝えばいい」といわれて甘やかされるわけです。

というわけで修行にも学問にも興味がなく、檀家を低く見て、世の中のしくみにもまるで疎遠な「ダメ住職」が増殖するのは仕方のないことかもしれません。

昔は、お寺の長男といえばほぼ例外なく「できる子」といわれていたものでした。ところがいまや小学校のクラスでデキがよくない生徒といえば、住職家の子なんてことも珍しくなくなりました。
(裏表紙帯)将来に跡を継ぐ住職の息子が、学校でビリの成績

→珍認識に驚きを通り越して呆れました。
好きでビリの成績を取る子供がいるでしょうか?
人を馬鹿にする論理にもほどがあります。

「永平寺の修行」
「永平寺で修行した」という略歴が、一般社会で話をするときに、大きな武器になります。この「箔」が欲しいがために、多くの修行僧が永平寺に向かいます。

しかし、いまどきの修行なんて、永平寺といっても、死ぬほど厳しいものではありません。大所帯であるぶん、人間関係も少しは希薄になりますから、かえって気楽だともいえます。

(永平寺の参拝者の中には)「精進料理を楽しみにしてこられる方もいます。味は二の次、ある程度腹が満たせればよいだろうというわけにもいきません。これがたいへんな数ですから、典座とは名ばかり、実態は食事係なのです。

旅館の料理人や仲居のような仕事をするわけです。

こうした仕事も、広い意味では修行なのですが、体よく手として使われているともいえるでしょう。

→こんなレベルで修行を理解する人が増えたら大変だと思います。
突っ込みどころ満載ですが、少なくても、私にとっては「死ぬほど厳しい」価値ある修行でした。
「ダメ坊主はチェンジしよう」
「一度釣った魚に餌をやらない」といいますが、はるか江戸時代の初期に釣ったきり、檀家は、お寺にとって永遠の搾取の対象でしかないのです。
葬儀の際に、何十万円ものお布施を包んでもらって、ごつい金時計をして、高級車で乗り付けるような菩提寺の住職を呼ばなくてはならないのは、またく悲劇としかいいようがありません。

また、冴えない感じのお坊さん、すっかり耄碌したお坊さんが来て、寝言のようなお経をモゴモゴされるのも、たまったものではありません。

同じお経を読んでもらうんだったら、やはり美声の方がいいですね。

→ここまで言うからにはご自分ではお布施は一切いただいていない、というなら理解できるのですが、結局名目を変えてご自身もお布施や会費に準ずるお金は受け取っています。そしてその額をみるとうちのお寺よりはるかに高いという(笑)
また今は若くて声がよく説法もうまくても、やがて誰でも年を取れば声が出なくなり話もつっかえるようになってしまいます。お年を召した先輩僧侶に対してあんまりな言い方です。

私は以前に○○県○○宗務所の人権委員会のメンバーでした。ここには、地域の教区長とそれに準じるクラスの住職たちが属しています。年齢は、五十歳前から五十代といった人たちが多く、若くて理想をもって臨んでいるような人は呼ばれません。
なぜなら、こういった「○○委員」というのは名誉職だからです。肩書きです。何かの機会で略歴をまとめるときに、「○○県○○宗務所人権委員」と書けるわけです。政治家といっしょです。「人権のことをおやりですか。ご立派ですね」といわれてニンマリしています。
ところが当人は、人権のことなんて、ほとんど知らないでしょう。彼らにとって委員会や会派の会合は、見栄のため、仲間内の情報交換の場、遊びの場にあるのであって、学びの場、実践の場ではないからです。ですから、形だけの勉強会や講習が終わると、さっそく飲みに出かけてしまいます。あるいは、週末のゴルフ談義に終始することもありました。

→○○の部分は、書籍では実名が書かれています。
こんなこと書かれて実際のその地域の僧侶は悔しくないのでしょうか?
名誉のために明記しますが、少なくてもわが群馬県ではいい加減な○○委員はありません。
百歩譲って、研修の後の空き時間に談笑しながらゴルフの話をする人もいるでしょうし、慰労会もありますがそんなのは世間のつきあい程度の範囲であって、主目的である会合や委員会はきっちり真面目に行い、研鑽し勉強を深めています。
遊びのために委員会に入る、など本当に遊びたいなら委員会に入らずに勝手に遊ぶでしょ。
※なおこの記事はしばらくしたら削除する予定です。あしからず御了承下さい。

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