鎌倉道元禅師顕彰碑

鎌倉道元禅師顕彰碑

神奈川県鎌倉市に道元禅師顕彰碑が建っています。

意外と、曹洞宗の僧侶でも知らない方がおられるようですが、由来も含めて是非知っていただきたい隠れた銘碑です。

この碑は道元禅師の七五〇回大遠忌を記念して平成十四年に建てられました。当時私は永平寺東京別院に籍を置いていましたが、東京別院をあげてバスでお参りにいくことになったのですが、料理長としての役目があるためやむなく留守番組となり同行できず、残念な想いをずっと抱いていました。

昨年の初春、鎌倉の茶道会に招かれてお茶会で精進料理懐石をお出しした際、会場地図を見ていたら、おっ、これは行きたかった顕彰碑のすぐ近くだな!と長年の念願が適って立ち寄ることができました。(諸事情により、すぐにブログで報じることができず今回の記事となりました)

道元禅師顕彰碑地図

臨済宗建長寺と鉢の木

石碑の所在地は、有名な鶴岡八幡宮のすぐ西側です。

私が降りた高速ICから進むと、到着手前に臨済宗建長寺があります。せっかくなのでまずは建長寺さんを参拝しました。

臨済宗建長寺

同じ禅宗ですので伽藍の様式などは似た部分がありますが、精進料理に関しては考え方が異なる部分も多く、実際に参拝しお話しを聞けたことで大きな参考になりました。

臨済宗建長寺

臨済宗建長寺

建長寺の門前には精進料理料亭として有名な鉢の木さんがあります。今回は残念ながら時間がありませんでしたがいつか機会があれば席についてみたいです。

臨済宗建長寺

鶴岡八幡宮と顕彰碑の位置関係

建長寺から鶴岡八幡宮までは車で5分ほど、トンネルを抜けてすぐです。

鶴岡八幡宮は修学旅行の定番です。小学校6年生の時に拝観した記憶があります。といのも拝観後はクラスメイトおまちかねの夕食とお楽しみタイムだったのですが道路がとても混んでいて大渋滞、宿になかなか着かず真っ暗になってしまった苦い想い出をよく憶えています。やはり今回も帰りは渋滞でした。できれば車は避けた方が賢明かもしれません。

鎌倉鶴岡八幡宮

鎌倉鶴岡八幡宮

参道の脇には奉納された日本酒の樽がズラリと並んでいます。神さまは酒豪じゃないとつとまらないな・・などと余計な心配をしながら全国各地から集まった銘酒のラベルを眺めていると、

鎌倉鶴岡八幡宮

地元群馬の誇る赤城山の樽がありました。こうしたところで地元の産物に会うと嬉しいものです。

鎌倉鶴岡八幡宮

さていよいよ顕彰碑をお参りします。

顕彰碑の場所は鶴岡八幡宮の西側になります。両側は一般住宅になっていて、少し奥まったところにあるため注意しながら進まないとうっかり通り過ぎてしまうかもしれません。

八幡宮の正面を左側に進むと、八幡宮で自動車の安全お祓いをしてもらえる場所があるのですが、その道路向かいあたりです。八幡宮の本殿正面を左に進んでもつながっています。顕彰碑のすぐ近くにも有料駐車場はいくつかありますが、顕彰碑のすぐ前には停めることはできません。交通量が多い場所なので、一時停止もあまりお勧めできません。車の方は手前の有料駐車場に停めて徒歩で2分です。八幡宮からは徒歩で5分ほどです。

鎌倉道元禅師顕彰碑 鎌倉道元禅師顕彰碑

道元禅師の鎌倉布教の意義と帰山後の句

道元禅師は、宋(中国)での修行を終えて帰国したのちは、会得した仏法の深奥を弘めるべく京都で布教していました。ちなみに当ブログで最も関係深い『典座教訓』は永平寺時代ではなく、このころ京都で執筆されました。

しかし京都でいろいろありました・・・何があったか語ると日が暮れてしまうためまた別の機会にお話しするとして、ともかく道元禅師は京都から離れた越前の深山幽谷に永平寺を開いて禅の根本道場としたのです。

永平寺で修行と弟子の育成に専念していました道元禅師が、珍しくも半年ほど永平寺を離れ、当時幕府があった鎌倉へ布教のために赴いたことがあります。

この鎌倉での布教については研究者によって解釈が様々で、また映画や小説などでもドラマティックに描かれることが多く、非常に興味を惹かれるものがあります。大概は、道元禅師が説く不殺生戒(殺さない)という教えが時の執権、北条時頼公にとって受け入れがたく、両者に深い溝が生まれ、北条時頼公が鎌倉に新しい寺を建てるからぜひ開祖となって欲しいと道元禅師に申し出たものの、道元禅師は話が通じないことへの落胆と、権力から遠ざかる決意を新たにしつつそれを断って永平寺に帰山した、とする解釈が多いようです。その際に時頼公からの寄進状を預かった弟子の話は永平寺で修行した僧なら誰でも知っているほど有名です。

この鎌倉布教以降、道元禅師の著作が方向性を変えているととらえる研究者もあり、大きなな転機になったことは間違いないのでしょうが、残された史料では、鎌倉へ行ったことは確実ですが誰と会ったかは不明な部分が多く、少なくとも北条時頼公と会ったことや寄進の逸話はどこにも書かれていないのです。個人的にも少々違和感があります。不殺生戒を武士としてどうとらえるかという問題は何も鎌倉の武士に限らず、京都や越前で接した武士たちも同様だったことでしょう。また永平寺も寄進を受けて建立された以上、鎌倉での新寺建立を避ける理由は不明です。なぜ鎌倉での布教だけがそこまで失意を抱かせたのか、大変興味深い謎の部分です。

現在の鎌倉には、庇護を受けた多くのお寺が素晴らしい伽藍と文化を残しています。道元禅師が権力から遠ざかって純粋な仏法を守り保つためにあえてその道を断ったという伝承は、曹洞宗が全国的に広まる中で、世知辛い世の中を生き残るために必要に迫られ生み出された方便的なものではないか、とみる解釈もあります。

いずれにせよ、道元禅師の説法が記された『永平広録」には、鎌倉から永平寺に帰った折の説法で、その境涯を「孤輪の太虚に処するがごとし」と表したことだけは確かに残っています。「さえぎるものが何も無い真っ暗な夜空に、まるい月がただ静かに輝いている」との句はいかなる意味があるのか、モデル化されたドラマティックな伝記にとらわれることなく、道元禅師の真意はなんだったのか、よくよく考えていくことが法孫である我々の責務だと思います。

この顕彰碑は、そうした道元禅師の行跡をあらためて問い直させてくれるようなありがたさに包まれています。

鎌倉道元禅師顕彰碑

宮崎奕保禅師による「只管打坐」

中央の石碑に彫られた文字は、永平寺の七十八世で、道元禅師七五〇回大遠忌の際の不老閣猊下、宮崎奕保禅師の揮毫による「只管打坐」(しかんたざ)です。

ただひたすら坐る。道元禅師の教えはいうまでもなく、この地の歴史的経緯に最もふさわしい文言だと思います。この顕彰碑を拝んでいると、道元禅師の往時の想いが文字を超えて伝わってくるような気がします。

この顕彰碑を建立するにあたっては、地元の諸老師方や初会関係者の並々ならぬ御尽力があったと伝え聞いています。現代にあってこのような碑を建立することの価値と意義は非常に大きいと思います。多くの僧侶や檀信徒に参拝していただきたいと願います。

鎌倉道元禅師顕彰碑

南澤道人監院老師による由来書と周囲の刻文

脇の銘板には、当時の南澤道人監院老師(現永平寺副貫首)による由来書が刻まれています。

曹洞宗高祖 永平道元禅師七百五十回大遠忌に値り、我等遠孫今茲に心を一にして、禅師鎌倉行化の事蹟を些か詳らかにし、その恩澤に報いんとする。
高祖越前入山後五年目の宝治元年(1247)八月三日、時に禅師四十八歳、永平寺開基大檀那波多野義重公(越前志比庄の地頭、京都六波羅探題評定衆)より鎌倉下向の懇請黙し難く、公の先君鎌倉幕府三代将軍源実朝公供養の為同年十一月十五日奉修せる鶴岡八幡宮放生会の彿縁を期してか、永平寺叢林を初めて離れ、漸くのこととして鎌倉行化の途に着く。
禅師がその師天童如浄禅師の遺誡を固く守り、権門に近づくことを極力厭い能くよく留意し、「只管打坐」の法燈を行持されたことを拝するとき、この行化は必ずしも心に添うものではなかったと推察される。然し、翌宝治二年三月十三日、永平寺帰山までの凡そ半年余、その波多野公の邸を始め名越白衣舎等鎌倉近在の諸処に在って、執権北条時頼公並びに妻室など、道俗諸緑の求めに応じ、説法授戒等の化導を為し正伝の彿法を弘められたと伝えられる。
以後一生不離叢林の志を益々強め、世寿五十四歳を以て遷化されるまで、永平寺に在って門弟等を教化示誨された行實等に触れるとき、感慨深いものを覚えるのは、我等法孫のみであろうか。
尚、時下って室町時代五山僧の記したものの中に、執政に日々懊悩する時頼公に対して、禅師が大政奉還出家入道を淡々と提言されたと見い出されることは、禅師の彿法中心第一の立場を物語って余りあろう。
終りに、禅師鎌倉滞在中に詠じられたと伝わる和歌を刻し、報恩の丹心を表す。
大本山永平寺監院 南澤道人 撰
維時 平成十四壬午平年三月吉辰謹拝建之

鎌倉道元禅師顕彰碑

石碑の脇には、道元禅師の詠んだ和歌が刻まれ、また石段には曹洞宗の仏戒、十六条戒が一段ごとに刻まれています。海外からの参拝観光者が多い鎌倉らしく、英字による解説版も付されています。

鎌倉に足を運んだ際には是非お参りをお勧めします。

鎌倉道元禅師顕彰碑

鎌倉道元禅師顕彰碑

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