お彼岸に精進料理を作るのはなぜか

さて、3月8日の記事でお彼岸の基本的な意味について説明いたしました。
現世を此岸、極楽を彼岸にたとえて、苦しみの多いこの世から、荒波を乗り越えて安らかな向こう岸にたどりつくというイメージは、三途の川を渡って向こう岸にある極楽にたどり着くという日本人の宗教観にマッチして、誰にでもわかりやすいたとえだと思います。


一般的なお彼岸の知識としてはそれでよいのですが、今回はせっかくなのでもう少し深く触れてみたいと思います。

お彼岸の一般的な説明を表面的に理解したままでストップしてしまうと、どうしても彼岸=向こう岸がはるか向こうのどこかにあって、現実のこの世とは直接関係ない理想郷のような誤解を受けてしまいますが、曹洞宗の教えではそうは説きません。

曹洞宗では遙か向こうにある彼岸や極楽浄土のような別世界をやみくもに望むのではなく、まずは今生きているこの現実の世の中で、向こう岸のような世界を実現する努力を惜しまない、という立場をとります。

道元禅師は『正法眼蔵』「仏教」の巻で「修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。彼岸に修行あるがゆえに、修行すれば彼岸到なり。」と説いています。

彼岸にたどり着くことを「到彼岸」というのですが、道元禅師は「彼岸到」、つまりもう彼岸に着いているというのです。ただし「修行すれば」という条件付きですが。

ちょっと難しいかもしれませんが、「修行に専念しているとき、もうすでに現実の今ここが向こう岸なんですよ」、というのです。「もう彼岸に到っている」なんて言われても自分にはここが極楽浄土とは思えない、苦しみと不満に満ちているじゃないか、と思うかもしれません。しかしそれは私たちが煩悩により曇った目でみているからここがすでに彼岸だと気がつかないのです。だからこそ、この世が彼岸であるために、その心の曇り=煩悩を取り除く修行が欠かせないのです。

そしてさらに、「修行」を向こう岸に渡るための「手段」として理解してはならない、とも念を押しています。修行を重ねることで彼岸に到る、というような「手段→目的」というプロセスを経るのではなく、一心に修行するとき、その瞬間がもうすでに彼岸(悟り)なのだ、というのです。
ちょっと哲学的な思考法が必要ですが、これは曹洞宗の教えの根本の一つでもあります。
修行を積めば悟りを得られる、というような考え方は、100円を支払えば缶コーヒーが飲める、というような取引に似ています。確かに現実社会では100円を支払えば間違いなく缶コーヒーを受け取れるのですが、修行の場合はそうとは限りません。一生懸命がんばってものぞむ結果にならないこともありますし、何よりも悟りたい、悟りたいと、結果ばかり考えて行ったのではそれ自体が欲望になってしまう恐れがあります。結果を期待しての行いは正しい修行にはなりません。何の対価も求めず、ただひたすらに善行を積むからこそ良い修行となり、また結果が出なくても、正しき修行をしているとき、そのまま今この世が彼岸になるのです。

ちょっと哲学的なはなしになってきました。
難しかったでしょうか。でも今はわからなくても、その教えを何度も何度も繰り返し拝読して坐禅を続け、毎日のなすべき行いを丁寧に真面目に真剣に積み重ねれば、それが即彼岸の境地なのだと信じることが大切です。

そうした姿勢で、先日紹介した「六波羅蜜」の各項目を行じることが大切です。
できれば一年365日、それを念頭において過ごせれば良いのですが、いきなりはじめからそうもいかない、と言う方はまずお彼岸の期間中だけでも、その教えを保とうと努力するこから始めると良いでしょう。

六波羅蜜を実践すると、特になにかおトクなことがあったり、とりたてて結果がでなくても、なんだか心が落ち着いたり、あるいは嬉しくなったり、充足感を感じたりする、という人が多いようです。
たとえば駅で震災の募金にささやかでも協力したり(布施)、もう目の前の仕事が面倒くさくなってきて疲れたから手抜きしようかとも思ったけれど、やっぱり最後まできちんと丁寧にやり遂げようと思いなおしてもうひとがんばり努力したら良い仕事ができたとか(精進)・・・逆に欲望のおもむくままやりたい放題に行動すると、そのときは一時楽しいような気がしても、結局後で後悔することが多いのではないでしょうか。
六波羅蜜を心がけて生活することで、おのずから欲望を抑えることができ、心の曇りが取れ、自然と心の平安が訪れるのです。

ああやっぱり六波羅蜜の教えっていいものだなあ、と少しでも実感することができたら、継続できるきっかけが生まれると思います。いくら和尚の話を聞いても、他人から一方的に押しつけられたものは長続きしません。
まずはお彼岸の期間中に少しでも六波羅蜜を実践し、自分でその素晴らしさを感じることができたならしめたものです。それを少しづつ日々の暮らしに活かしていければ、文字通り「彼岸到」が現成することでしょう。

さて、ここまで読んで気がついた方も多いでしょうが、日本では「お彼岸と言えばお墓参り」というイメージが強いのですが、お墓参りだけすれば良いというのではなく、(もちろん何もしないよりお墓参りだけでもした方が良いのは確かですが)お墓参りは正しい行いや善行の中のひとつであり、それだけで終わってしまうのではなく、お墓参りやお寺に足を運んで和尚と話をするのをきっかけにして、より正しい道を歩むよう努力を続けることが大切なのです。

精進料理を実際に作ることで台所でほとけの教えを実践し、食べ物の命、そして自らの命に感謝してお膳を調え、亡き人に感謝の意をこめて、恩返しとしてお供えし、そして自分も慎ましやかにそれをいただくという修行、まさにこのお彼岸に是非つとめて欲しいと思います。

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コメント

  1. ms より:

    初めまして。いつも拝読させて頂いています。
    昨日、こちらのレシピをまねて汁物をつくってお供えしました。
    自分でも頂きましたがとても美味しかったです。

    初彼岸ですが、お寺のご住職がいらっしゃるときに、また作って
    食べて頂こうと考えています。

    記事の内容は心に沁み入りました。ありがとうございます。