パソコンのメモリーと永平寺のそうめん

きょうの朝、NHKラジオの番組「社会の見方・私の視点」で興味深い話題が放送されていました。

パソコンなどに使われるDRAM(ディーラム)という小さな部品があります。パソコンではいわゆる「メモリー」と呼ばれています。こうした精密な工業製品は日本の得意分野で、かつては多くの国内メーカーが製造していましたが、西暦2000年くらいを境に韓国メーカーなどに市場競争でことごとく敗北しはじめ、国内メーカーはほぼ撤退してしまうこととなりました。当時私もよく自作パソコンを作っていたのでその状況をまさにリアルタイムで経験していたため、そのラジオ番組を大変おもしろく聞くことができました。

解説者は、当時国内電子メーカーに勤務しており、優秀な技術者として功績を認められ、課長に昇進したのだそうです。それまでは一技術者として自分の担当行程のことはよく理解していましたが、他の行程のことはあまりよく知らなかったのだそうです。しかし当時最新型の256MBのメモリーを製造する管理責任者となり、課長としてその行程の全てを把握する立場になりました。

コストを減らすためには、不要な行程をなるべくカットする必要がありますが、あらためて全ての作業行程をチェックしてみると、どうしてこうした作業が必要なのか、よくわからない部分が三割近くもあったのだとか。そこで目的不明な行程を担当している技術者に、この作業はなぜ行っているのかを聞いてみると、「256MBの一つ前の性能の128MBメモリーを製造していた時に行っていた工程を、そのまま残した」という答えだったのだそうです。つまり、今製造している256MBのメモリー製造に本当に必要な作業かどうかは検証していないのでわからないが、とりあえずその作業をなくして不具合が出ると困るし、現状として不具合が出ないのだからそのまま残しているというのです。そこで課長さんは、128MBよりさらに前に製造していた64MBのメモリーの工程担当者にも聞いてみると、「いやその前の32MBメモリーの時から・・」とまさに笑い話のような回答があったのだそうです。

DRAMを製造するための機械は一台何億円もするそうです。ですからいかに不要な手順を無くしつつ精密に仕上げるかで大きく生産コストが変わってくるため、そうした意味のよくわからない工程を残したまま、無駄なコストをかけて製造していたことが、日本のメーカーが新たに台頭してきた海外メーカーに負けてしまった理由の一つではないかという解説でした。

そうめん

その話を聞いて、私は永平寺修行時代の経験を思い出しました。

永平寺では、入門した修行僧は受付係、案内係、料理係、法要係など、たくさんの部署の中からどれか一つに配属され、当面は与えられた係の任務を通じて修行を行います。その係でどんな任務をどうこなせば良いか、新たに配属された新人がすぐにわかるように書かれた、いわば引き継ぎノートのようなものが係ごとに作られています。たとえば法要係だったら、当番Aにあたった日は朝何時に起きて仏さまのお水を替えてどこそこをどう掃除して火鉢の火を起こして・・というような感じです。そのノートは永久不滅なものではなく、たとえば寄進を受けて新しく灯籠が設置されれば「朝○時ごろになったらスイッチを消す」ことがノートに追加されるし、夏期のみ適用される任務などがあったりして随時内容は変更され修正されていくのです。

さて、私が料理係の倉庫番、まあ一般で言えば係長クラスの役職をしていたとき、ある部署から、そうめんを少し分けて下さいという依頼が続きました。はじめは、ごく少量でしたし、その部署の仏さまにでもお供えするのかなと思って応じていましたが、秋もおわるころ、もはや時期外れとなり、料理係の倉庫にそうめんがなくなってもまだそうめんを下さいと言われるため、何のために使うのか、また本当に必要なのか、総料理長を通じて確認を取ったことがあります。

それで判明したのは、夏頃その係を指導する老師のもとに、信者さまからお中元かなにかでそうめんが大量に届いたのだそうです。しかし大量とはいえ二百五十人ほどいる永平寺全体で食べるにはいきわたらない量なので、そうめん好きな老師の朝食に出すことにしたそうです。(永平寺では一箇所に集まって皆で朝食を食べますが、一部の部署の老師は任務内容や時間的な都合により、部屋で各個食事を摂る場合があります)

その係の引き継ぎノートには、「老師の朝食に、そうめんを一束ゆでて添えること」と記され、夏の間続けられたそうですが、大量にあったそうめんもだんだん減ってきてついにはなくなってしまいます。しかしそのころには、どういう理由でそうめんを出すことになったのか知っていた当番も別の部署に異動してしまい、次に来た当番はとにかくノートにそう書かれていたから素直に従っていて、そうめんがなくなってしまったので調理係の倉庫番である私にお願いして補充して出していたというのです。

当の老師は、そんなことは知らず、まだお中元のそうめんは終わらないのか、くらいの感覚で、毎朝おいしくそうめんを食べていたのです。

まあ実害があるわけではない笑い話ですが、一歩間違うと大きなトラブルにつながる可能性もある危険な話です。一般家庭だったら、いただいたそうめんがなくなったらそれでおしまいですが、ラジオで解説されていたDRAMの電子メーカーや、永平寺のような大きな組織となるとこうした行き違いは時折発生してしまいます。もしかして誰も気が付かないまま、それが数百年の伝統となり、後世の修行僧が、「永平寺で開創以来伝わっている歴史ある朝のそうめん・・」とかなっちゃって??いたかもしれません。

特に宗教では、誰かが悪意無く、それらしくはじめたことが、長く続けられるうちに本来の意味から離れていく例がたくさんあります。もちろんそれが全て悪わけではなく、長く続いていくうちにそのこと自体に意義が生じ、宗教的行為として尊重されるべき価値ある伝統となる場合もあります。しかし逆に、皆が気にしているけれど実はもとをたどればどうでもいいようなことが根源で、「えー、だったらこれって意味あるの??」と首をかしげたくなるような現象も少なくないのです。

現場では多忙に追われ、とりあえずマニュアルに従って言われたとおりのことをこなし、上役はそんな細かい所は現場に任せていて関知しない、これはとても危険な構図です。組織の効率が落ちるくらいならまだしも、知らないうちに他人を傷つけたり実害を生じさせてしまう例は過去にもたくさん起きています。

それを防ぐためには、「なぜこれを行うのか」「これは必要なことか?必要なら、どういう意味で行うべきで、何に気を付けておこなえばより良いか」を各自常に問題意識を持ち、目の前の狭い受け持ち業務をこなすことだけに埋もれてしまうのではなく、全体の流れを見渡しながら把握する必要があると思います。

長くなりましたがこの話題はもうちょっと続きます。

記事が気に入ったら是非SNSでアクションをお願いします☆

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です