ホリエモン氏の寿司職人修業期間論にもうひとこと

前回、ホリエモン氏の意見にある意味で賛同したところ、反論メールが数通届きました。そのほとんどは「伝統職人の地道な修業の否定は、日本文化の衰退につながる」という主旨でした。

誤解が無いように補足しますが、私は日本文化や、職人さんの地道な修業の大切さを否定するつもりはありません。というか前回もちゃんとそう書いてるのですけど、きちんと読んでくれていないのでしょう。まあホリエモン氏はキャラが強烈なので、はじめから氏に否定的な感情をお持ちな方が多いようです、やはりそうした偏った主観で他人の意見を退けては視野が狭くなってしまうのではないでしょうか。

同記事の中で、ホリエモン氏はこうも発言しています。(以下引用)

 ホリエモンは2014年12月26 日に「ホリエモンチャンネル」で寿司職人について語っている。
コロンビアに寿司店を出したいという男性の相談に答え、寿司職人になるには10年かかると言われてきたけれど、半年でプロを育成する専門学校も出来ている。長い期間修業が必要なのは「1年間ずっと皿洗いしていろ」などと寿司作りを教えないから。問題は寿司を作る人のセンスだ、などと語った。

実際に「3ヶ月で江戸前寿司の職人になれる」専門学校に質問してみると、
「寿司は古い体質があり、寿司を握ることができるのは花形なんです。新人は追い回しから始まり寿司を握ることはずっと先の話になりかなりの時間を要するわけです。」「問題はセンスがあるかどうかで、センスがあれば一気に高みに登って行きます」

ところで、現在海外での寿司屋の需要はものすごくありますが、海外の寿司職人に必要なスキルは、高級江戸前寿司を握るスキルではありません。
日本ではとてもお客様に出せないようなネタしか手に入らないこともあるし、お客様に「チリソースを出してくれ」と言われることもある。そんな環境でも、できる範囲で、現地のお客様が喜ぶような寿司を出すのが仕事です」ということでした。

永平寺では、調理係に配属されると、数週間の見習いを経て、まずは皿洗いや料理長のお付き、掃除や食材準備などのいわゆる下働き的な係を受け持ちます。

そして早い人は料理係に配属されて1ヶ月、遅くても2ヶ月後には、修行僧に出す実際の食事を調理する係が回ってきます。たった1ヶ月後ですよ?ちなみに私は諸事情により配属後2週間くらいでデビューしました。ある程度料理の基本を知っていた私でも、まだ調理場に配属されて2週間でいきなり300人分の食事をほぼ一人で作るというのはものすごいプレッシャーで、前晩は緊張のあまり眠れなかったことを良く覚えています。

それまで料理をしたことがないド素人が、1ヶ月で永平寺全体の土台となる大切な食事の責任を肩に負わされるというのは、実際どうなんでしょう?

その後、調理係の修行僧を指導する料理長の立場になってからよくわかりましたが、じつは修行僧本人のプレッシャーよりも、それを監督する料理長の責任と精神的負担はその何倍も大きいのです。そりゃそうです、料理したことがない新米修行僧にさせるよりも、料理長が自分で作った方が早いし上手にできるのは当たり前です。それなら失敗もないし、余計な心配でヒヤヒヤイライラすることもありません。

ただ、料理長がぜんぶ料理してしまったら、いつになっても修行僧の調理技術は上がらないでしょ?それに私自身も、はじめて料理したヘタクソ時代には、おそらく料理長老師や先輩が、万一失敗しそうな時には取り返しが付かなくなる前にフォローできるよう、陰で胃を痛めながら気を使って見守っていたことに立場が変わってはじめて気が付きました。

新入りに見習いの名目で長期間で皿洗いをさせて上役が楽するどころか、新入りが炒めものの味付けをしている間に料理長が横目で火加減を見まもりながら無言でシンクに貯まった鍋を洗っていることすらあります。加えて、もしも大失敗して食事が出せない結果になったら、永平寺中をお詫びして回るのはその新米修行僧ではなく、責任者である料理長です。つまり永平寺で新人にさせるのは、新人のためを思ってのことなのです。

これは料理係だけでなく、たとえば法要係でも同じです。法要儀式担当の老師が、すべて自分で法要準備をして鐘や木魚を打ち、お経を唱えれば常に洗練された法要が営まれるのは当然です。参拝者に依頼されて行う大切な供養の法要などはそうしますが、たとえば毎日行われる朝昼晩の勤行などは、老師はあえて手を出さず、修行僧に受け持たせて下さいます。数百人の僧侶の前で読経のリードボーカル役をすると、時にうまくいかず失敗したりすることもありますが、そうした場数を踏ませていただくことで非常に良い経験と自信になります。

永平寺ほどの伝統と格式ある寺でも、こうして場面を選びながら新米修行僧にも実務経験を積ませています。これは決して結果を急いだ安易な促成栽培ではなく、修行僧に壁を乗り越えて欲しい親心からで、同時に指導者にとっても、見まもり育てるという素晴らしい修行になるのです。

何が言いたいかといえば、確かに何十年も基本的な修行、たとえば雑巾がけや掃き掃除だけに専念させ、充分な下地を調えてから諸役を経験させるのも時間的事情等が許すなら、望ましいことでしょう。十年間、老師の調理法を近くで見ていれば、さあオマエもやってみろ、といわれても手順から何からとまどうことなく覚えてしまっていて、ある程度スムーズに進めることができ失敗のリスクは少ないと思います。

しかし、では数ヶ月でそれは無理なのかといえばそんなことはないのです。「1ヶ月後には自分もこの大釜で300人分の炒めものを作るのだな」とわかっているのですから、床掃除やら鍋磨きをしながら先輩の調理を可能な範囲で見て流れを把握し、できあがった料理の状態や味を確認していく姿勢があるかないかが重要です。不明点があれば夜のわずかな空き時間に直接先輩に聞いておくことだってできますし、過去の失敗例なども自分に聞く気があれば参考になるのです。法要も同じで、ただ老師のお経ソロをボーッと聞き流して参列しているのではなく、どう息をつぐのか、どういう抑揚なのか、声質やテンポはどうか、そうした点を気にしながら自分でも真似できるように聞くことが大事です。

このように、無為に何年も長く経つより、自分がやる時にはどうするのかを自覚して短期間で集中的に準備する方が良い場合もあります。つまり次はすぐに自分の番だという、そうした目線でものごとを見るかどうかがポイントなのです。実際、それで永平寺の日常の調理も、ヒヤッとする場面は多々ありながらもなんとかなっているのですから。

また、新人を指導していて感じるのは、努力する人やセンスがある人、工夫できる人は、ある程度の仕事をタイミング良く任せてあげると、驚くくらい素晴らしい成果を上げることがよくあります。こうした人材に、何年も陰の修行をさせて実務を積ませないのはある意味もったいないことと考えることもできます。そもそも僧侶は何のために修行するかといえば、自分のためでもありますが、いずれ世のため人のためになるように世間と接していくためでしょう。であれば、何十年も寺にこもって完璧になってから一人立ちする理想的な育成法だけでなく、早くから未熟なことを承知で世間の荒波の中で修行を続け、そんな中で少しでも僧として他人を癒やす道を選ぶのも選択肢のうちではないでしょうか。もちろん、辛い修行が嫌で早く修行寺を出て、世間でも好き気まま煩悩まみれでやっていたら問題外ですが。

さらにもう一つ、新人を教える中で思ったことがあります。中には伝統や格式をものすごく重んじ、大切にする古風な若手修行僧もいます。本当に師や先輩に敬意を持ち、伝えられてきた作法を重視し、真面目に修行するタイプで、ある意味頭が下がるのですが、時に言葉は悪いですが「石頭のくそまじめ」に陥ってしまわないように気を付けてみてあげないといけません。

手抜きを目的に伝統を変更するのは論外ですし、儀式や作法などではあまり意味や効率などを考えず、伝統にしたがった方が良い場合もあるのですが、たとえば料理で言えば、「この料理はしょうゆをこれくらい入れてこういう味にする」と教わっても、その日の食材の状況やら季節気温、食べる人の労務作業の疲労状況によりしょうゆを加えず塩だけの方が良い場合もあります。

「昔からこう決まっているからこうしないとダメ」と例外を認めず、とにかく一直線に伝統通りにしかできないのでは困る場面も出てくるのです。

記事で指摘されているように、外国のお寿司屋さんでは日本で何十年も修業した頑固職人さんだと、中には「そんな失礼な注文、できるか!」と怒ってしまいそうなオーダーでも臨機応変に対応できるのは、むしろ頭が柔らかい発展途上の新人だったりもします。お寺の世界でも同じで、どんな場面であろうが頑なに古式通りでなければダメ、とまったく融通が利かないのは時に周囲を困らせる場合もあるのです。

実際、伝統の技を大切にして修業してきた一流の寿司職人が握るお寿司屋さんに、皆さんは今月何回食べに行ったでしょうか?私が僧侶だからかもしれませんが、そうした高級名店に、私は今までの人生でわずか数度しか入ったことがありません。それも特別な席に招かれてとか、大先輩に連れて行ってもらったとか。

回転寿司かスーパーのパック寿司でさえ、最近だとお盆中にいただいて以来ご無沙汰です。
良く通る国道沿いの大型回転寿司店の駐車場はいつも混んでいるので、わが国の寿司人気はかなり高いと思いますが、高級な寿司店にしょっちゅう行ける人はこの時代少数派だと思います。10年修業して一人前になった職人さんが作るこだわりお寿司は、ある程度高額なのでそんなに頻繁に食べることができません。スーパーで売っているパックのお寿司は、職人さんどころかパートのお姉さんがビニール手袋をはめて握っていたり、寿司ロボが自動で成形していますが、たとえば小さなお子さんとともに家族でお寿司を食べるなら、あまり敷居が高い高級お寿司屋さんよりも、ファミリー向けの手軽なお寿司屋さんの方が財布にも優しいし、雰囲気もあっているでしょう。それにそうしたお寿司はそれはそれでいろいろな工夫がしてあり、私は高級寿司と同じように美味しいとおもいます。値段や職人の修業歴だけで寿司の価値がきまるわけではないでしょう。

ある程度気軽に、安価で食べることができるお寿司が身近にあり、特別な時には高級なお寿司も味わえるような幅広い環境があってこそ、日本の寿司文化が受け嗣がれていくという面もあるのではないでしょうか。

和尚も同じで、ご本山にお参りすれば何年も修行を積んだありがたい老師がおられます。対して私のように未熟なまま道場を去り、地元で皆さんと接する中で少しずつ勉強させていただいている僧侶もいる、皆さんのニーズが多様化している中、いろんな和尚がいるからこそ良いのでは無いでしょうか。

結局大切なのは、「何のために修業するか」ということでしょう。早くから生活を成り立たせる必要がある人は、早く1人前の収入を得ながら未熟ながらも現場に立つわけで、そうした金銭は後回しにしてでも、ゆっくりじっくり師の元で技を磨きたい人もいる。同じお寿司業界でもさまざまなお寿司があり幅広い料金設定があります。どちらか良いかということではなく、それはお客さんが選べばいいだけのことです。

「何のために」を考えた時、自分のためであると同時に、お客さんのためにどうあれば良いかを忘れずに修業するのが良いお寿司職人さんには欠かせないように思います。

ホリエモン氏の発言は、こうしたことを自分自身考えさせてくれた良い発言であると思っています。皆さんはいかが感じたでしょうか。

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