ホリエモン氏「寿司職人が何年も修業するのはバカ」について

かつてライブドアで名を馳せ、今もストレートな物言いでネットを賑わせているホリエモン氏が、先日こんな発言をしてネット上で物議を醸しました。

いわく、「寿司職人が何年も修業するのはバカ」
(以下、J-CASTニュース 11月2日(月)18時47分配信を一部引用)

 寿司職人として一人前になるためには「飯炊き3年、握り8年」の修業が必要、などという話があるが、ホリエモンこと堀江貴文さん(43)が2015年10月29日のツイッターで、問題なのは職人としてのセンスであり「何年も修業するのはバカだ」と切り捨てた。
寿司の世界では「飯炊き3年、握り8年」の伝統があるが、
「今時、イケてる寿司屋はそんな悠長な修業しねーよ。センスの方が大事」
とつぶやいた。
フォロアーからご飯を炊く時の水分調節やシャリを握るのはそう簡単に会得できるものではない、と意見されると、「そんな事覚えんのに何年もかかる奴が馬鹿って事だよボケ」
と返した。長い期間の修業や苦労によって手に入れたものは価値がある、というのは偏見であり、寿司職人の修業というのは若手を安月給でこき使うための戯言に過ぎないというのだ。

<以上一部引用終>

皆さんはこれを読んでどう思いますか?

まずこの話題にはさまざまな問題と切り口が混在していますが、
私自身はホリエモン氏のこの意見はなかなか鋭いものの見方だなあと感心したのが本音です。

まあ口調や言い方はおそらく話題提起や注目させるための氏の故意的手法でしょうから気にしないことにしても、おそらく多くの方は寿司職人という伝統の技を軽視するような発言を不快に思ったことでしょう。

しかし、実際に長年修業してから独立して寿司職人になるってのは現在の社会では難しいように私は思います。
もちろん、そうした恵まれたご縁で理想通りのコースを歩む職人さんもおられるでしょうが、あくまでもそれはそうした環境に出会うことができたごく一部の運が良い人だけだと思います。

たとえばお寺の世界でも、できれば寿司職人と同じくらいの長い年月をかけて山奥で修行し、ある程度の実力を身につけてから僧侶として一人立ちし、一般の信者さん方と接するのが理想です。しかし今はそうもいかないのが現実なのです。私が永平寺に上山した年には、120人くらいの同期がいましたが、半分以上は1年で山を下りて地元の寺に散っていきました。3年間残ったのは私も含めて10人程度。
さらに私は永平寺東京別院に入って4年間、合計7年間修行寺に身をおきましたがそれは父である師僧が比較的若く、その間寺を一人で守ってくれたから私が長く修行することができたのです。これはかなり恵まれた状況だったと思います。

大きくて忙しい寺なら、そんなに長く弟子が修行していたら日々の檀家さんの求めに間に合いませんし、逆に小さいお寺だと何か副業的な収入を考えなくてはいけないため、これまた長く修行しているわけにもいきません。

特に現在は高齢化でお寺が一時的に忙しい時代です。またお檀家さんの側も、とにかく仕事が休みになる土日祝日に集中して法要を設ける人ばかりで、どの寺も予定が特定の日だけに集中し、檀家さん側も修行に行った若住職に早く帰ってきて寺を手伝って欲しい、と願うケースが多いのです。

修行が辛いから一年で修行を終えてとっとと帰りたい、などと楽をしたい修行僧も中にはいますが、ほとんどの同期は、もっと長く修行したくても、そうした寺の事情でやむなく一年で区切りをつけて寺に戻るのです。

それに対し、「たった一年で修行を終えた半人前の和尚に葬式ができるのか!」
と言われたとき、それは言われた和尚本人が一番良く未熟なことはわかっているのです。
こんな自分で申し訳ないなあという気持ちを陰に隠し、なんとか恥じないようにひとかどの法要を務めることができるように謙虚な気持ちで務めるしかないのです。

私なぞ、3年永平寺にいて、難しく複雑な法要やお経、役割もひととおり身につけて帰った後でも、はじめて地元の寺の檀家さんの前で一人で法要を務めた際はやはり自分の実力不足を痛感しましたし、その後さらに4年の修行を積んだ後も同様です。永平寺の門を叩いてから20年近く経ちますが、未だにもうこれで満足というレベルには達していません。

となると、20年経っても1人前ではないとなれば、では何年修行すれば良いのでしょう。

道元禅師さまは、「修行というのはずっと続いていくもの」と示しておられます。
それは何年続けても終わりはないのですが、だからといっていつまでも同じものではなく、時に進歩し、かつ退歩反省しつつ、少しづつ前に進んでいくものだと説きます。
それを「行持道環」(ぎょうじどうかん)と呼びます。

また、初心者の修行と、熟達者の修行に価値の差はなく、修行をしている限りどちらも等しく尊いと説かれます。入門したばかりの和尚の礼拝も、禅師さまの礼拝もほとけさまの前では同じなのです。

もちろんそれは修行の価値についての話であって、技術面では話は別でしょう。
やはりうろ覚えなお経でしょっちゅう間違えたり、木魚のリズムがおかしかったり声が小さかったりする新米和尚より、場馴れしたベテラン僧の朗々と心に染みいる読経の方が好まれるのが現実です。
技術面だけでなく、檀家さんの心に響く法話ができるようになるにも、檀家さんの悩み事相談にうまく応対できるようになるにも、社会経験や年齢などを積んだ年配の僧侶の方が良いに決まってます。
実際、私など20代のころは口の悪い檀家さんに「なんだ、今日は若い方の和尚か。住職はどうした」とかいわれて傷ついたことも少なくありません

では、技術的に円熟し、人間的にも成長するまで外に出ず修行を続け、一定のレベルまでクリアしてから外部と接するのが、本当に良いことなのでしょうか?

そうできる環境なら、その方が良いのかもしれません。
しかし少なくても私自身の和尚としての経験からいえば、永平寺にいつまでもこもっているよりも、実際に世間に出てからでないと学べなかったことがたくさんあるように思います。
悲しい葬式をたくさん経験し、仏教学部の教科書では学べない世の中のリアルな無常に触れ、人間のさまざまな心に接し、喜びも哀しみも積み重ねてこそ、少しずつ和尚として成長していくものだと思っています。
一人前になるまで、ずっと修行寺にこもっているよりも、遥かに世間での修行もまた厳しいものです。

さて、今回の投稿で私が言いたいのは、

「ただ単に修行期間の長さだけで判断するのはナンセンス。そうした看板も評価の一材料であることは確かだが、それだけでは評価すべきでない。一人立ちしてからも修行は続いており、あくまでも現在の総合的な実力が高ければ、修行期間が短くても、現実問題として素晴らしい人格の和尚やすぐれた寿司職人もいる。そうした意味で、ホリエモン氏の、職人の修業年数や精神論だけを重んじる姿勢を否定し、実際にイケてる寿司屋のセンスにこそ注目すべきという発言には賛同できる」

 

ということです。

長くなってきました。
今回のホリエモン氏の指摘について、次回別の角度から続きを書きたいと思います。

※お寺、特に曹洞宗では修行は「修行」と書き、一般的に職人さんなどの修業は「修業」と書き分けます。

記事が気に入ったら是非SNSでアクションをお願いします☆

Posted by 管理主宰者・典座和尚