第3回 典座をつとめた先徳 その1

 前回の本文に「昔日、?山洞山等之れを勤め・・・」とありました。この箇所に登場したお二人の先徳を詳しく紹介します。

まずはじめに、イ山霊祐(いさんれいゆう)禅師について。(イはさんずいに為)

「一日作さざれば一日食らわず」の句で知られる中国唐代の百丈懐海禅師(ひゃくじょうえかいぜんじ・詳細はこちら)の弟子で、数多くの逸話を残された大禅家です。

同慶寺などいくつかの禅寺がある大イ山(だいいさん)という山で住職をつとめたことから、イ山霊祐禅師と呼ばれます。

禅宗では、百丈禅師のころから、今まで禁じられていた作務を尊い修行として積極的に行うようになりました。教団を維持するためにいわば思想の転換を図ったとみることができ、それがのちに禅宗で精進料理が発展する大元となったといっても過言ではありません。

しかし、今まで禁じられていた作務を行うようになったため、一時的に修行僧たちの風紀が乱れたといわれます。おそらく、「本当に作務なんて仏道修行になるのかあ?」と宗旨を疑う輩や、「作務で疲れて坐禅できねー」なんて言い出す愚者が出たのだろうと推測できます。

それをただすために、『イ山大圓禅師警策(いさんだいえんぜんじきょうさく)』という書を記したのがイ山霊祐禅師です。

「警策(きょうさく)」というのは、坐禅の際、眠っている者の肩を叩いたり姿勢を正したりするための平たい棒のことです。イ山禅師が棒(警策)で叩いたということではなく、たるんだ修行僧たちを誡める警策のような主旨の書物、という題で、修行の本来あるべき姿を平易に説いた書となっています。

イ山霊祐禅師と、その弟子山慧寂(きょうざんえじゃく)禅師の系統は非常に活発に禅を実践したため、その一門を二人の禅師から一字づつとって「イ仰宗(いぎょうしゅう)」と呼びます。すなわち、イ山霊祐禅師は?仰宗の宗祖です。

ちなみに、中国の唐代から宋代になると禅宗が非常に発展し、家風の違いによっていくつかの分派が起きました。これを分類して「五家七宗(ごけしちしゅう)」と呼びますが、イ仰宗もその中の一つです。

さて、イ山霊祐禅師が百丈慧海禅師のもとで典座をつとめていた時の有名な逸話を紹介します。百丈禅師が、典座である?山霊祐禅師の力量を認め、大イ山の住職に任命しようとした時のことです。修行僧のリーダーとでもいうべき「首座(しゅそ)」という役をつとめていた華林善覚という首座和尚がその人事に異論を唱えました。

そこで百丈禅師は、二人に試験の意味で質問をしました。

「そこにある水差しを、水差し以外にはなんと呼べばよいか?」

華林首座は、「木の切れ端とは呼べないでしょうなあ。」と答えました。

イ山霊祐禅師は、無言で水差しを蹴り飛ばして出て行きました。

その結果、百丈禅師はあらためて?山霊祐禅師を住職に任命したのです。

禅にあまり興味がない方がこの話を聞いたら、意味不明に思うことでしょう。

なぜ住職任命試験でそんな乱暴なことをしたのに合格してしまうのか。

そう考えるのは世間一般の常識に基づいた場合の話で、相対的な価値判断を捨て去って自由な境地をめざす禅の世界では、「水差し」という固定概念にはとらわれないのです。それは水差しであって水差しではなく、水差しはすなわち世界全てでもあるのです。

華山首座はまだまだ未熟で、水差しや言葉にとらわれていたため不合格となり、とらわれることなく言葉を超えた行為で表現したイ山霊祐禅師が合格したというわけです。

正直言って、未熟な私が下手な説明をしても充分には表せないし、かえってわからなくしてしまうだけかもしれません。それ以上は禅の道を歩んで参求するよりほかないでしょう。

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