第7回 典座自らが手を下すことの大切さ

○読み下し文

米を淘り菜を調ふる等は、自ら手づから親しく見、精勤誠心にして作せ。一念も疎怠緩慢にして、一事をば管看し、一事をば管看せざるべからず。功徳海中一滴もまた譲ることなく、善根山上一塵もまた積むべきか。

『禅苑清規』にいわく、「六味精しからず、三徳給らざるは、典座の衆に奉する所以に非ず」と。

先ず米を看んとして便ち砂を看、先ず砂を看んとして便ち米を看る。審細に看来たり看去って放心すべからざれば、自然に三徳円満し、六味倶に備わらん。

○よみがな

こめをよりさいをととのうるとうは、みずからてづからしたしくみ、しょうごんじょうしんにしてなせ。いちねんもそたいかんまんにして、いちじをばかんかんし、いちじをばかんかんせざるべからず。くどくかいちゅういってきもまたゆずることなく、ぜんごんさんじょういちじんもまたつむべきか。

『ぜんねんしんぎ』にいわく、「ろくみくわしからず、さんとくそなわらざるは、てんぞのしゅにぶするゆえんにあらず」と。

まずこめをみんとしてすなわちすなをみ、まずすなをみんとしてすなわちこめをみる。しんさいにみきたりみさってほうしんすべからざれば、じねんにさんとくえんまんしろくみともにそなわらん。

○意訳

お米をといだり、野菜を調理したりする時は、典座自身が親しく手をくだし、精一杯できるかぎりのことをまごころをこめて行いなさい。少しのこともおろそかにしてはならず、特定のことだけに注意を払い、別のことをいいかげんにするのではいけません。

わずかな一滴の水が集まって広大な海となり、少しの土が積まれてはるかな山ができるように、ちょっとしたことの積み重ねが大切なのです。

『禅苑清規』には、「六つの味を自由にあやつることができず、また三つの徳が欠けているのでは、典座和尚が修行僧たちに尊い食事を用意することはできない」と記されています。

たとえばお米をとぐのであれば、砂が混じっていないかよく確かめ、さらに取り除いた砂を捨てる前に、お米が混じっていないか確認するのです。

そうして何度も細かく確認し、手間をかけ、手抜きをしなければ、自然に六つの味と三つの徳が整うものです。

○解説

この部分で述べられている要点は「どんな細かいことでもおろそかにしない」「典座自身が責任をもって直接調理を行う」という2点です。

具体例としてお米をとぐ際の注意が述べられていますが、考えてみれば一宗の祖たる高僧がお米をとぐ注意点をわざわざ記してくださるなんて、誠にありがたいことだと思いませんか。「坐禅とは・・・。」とか「仏の智慧とは・・・。」というような難しい書物をたくさん残された道元禅師が、誰にでも理解できるお米のとぎ方を懇切丁寧に説いたのはなぜでしょうか。

すなわち、難解な理論を追求するのも仏法であるし、逆にお米をといだり大根の皮をむいたりという単純な行為をあたりまえのように日々積み重ねるのも同じく仏法なのです。どちらが上でどちらが下とかいう区別はありません。どちらも同じく尊い仏法です。

言い換えれば、仏法は一部の知識階級だけにしか求めることができないのでは決してなく、誰もが毎日の暮らしの中で実践することができるのが仏法であり禅なのです。

昔のお米といえば、砂や石、虫などが混じっているのが当たり前でした。今でも、苦労して育てた自家栽培のお米には当然混じっています。ところが市販のお米は工場で不純物が取り除かれて出荷されているため、今ではご飯を炊く際にいちいち石をよける作業をしなくなりました。便利な時代になり、その手間が省かれたとしても、石を取り除くという行為に込められた気持ちやまごころまで略してしまってはいけないのです。ご飯に小石や砂が混ざっていたら、食べた人が口の中でジャリジャリ、ガリッと不快な思いをするでしょう。相手のことを思いやって、手間を惜しまず一心に調理するのが精進料理の心なのです。

また、お米をより分けるというのは非常に面倒な作業です。少量ならまだしも、数百人分もの修行僧に行き渡るだけのお米といえば何升もの量になります。それを毎食続けるのですから大変な手間です。とかく雑になりがちなこの作業、「面倒くさい」と思いながらよりわけると、石や砂といっしょに肝心のお米まで捨ててしまうことになりかねません。

道元禅師は、より分けた石や砂などを捨てる前に、その中にお米が含まれていないか再確認せよと説かれています。面倒な作業だからといって、お米の命を無駄にするようないいかげんなことは許されないのです。食材を敬い、無駄を出さないのもまた精進料理の心なのです。

もちろん、ここでは一例としてお米のとぎ方が書かれているのであり、ダシをとるにも野菜の皮をむくにも豆腐を煮るにも、何をするにしても同様のこころがまえでとりくまなくてはいけません。しかもその上、それらの苦労を典座自らが直接行いなさい、というのです。

大きな寺の調理長ともなると、部下である調理人を大勢かかえることになります。一言命令すれば、面倒な作業を部下に命じてかわりに行わせることもできてしまいます。それをせず、典座自身が直接手をくだし、心をくばることが重要なのです。

もちろん、実際の禅寺での調理では、典座一人が全てを行うのは不可能です。当然、典座の判断により、部下たちに作業をそれぞれ分配して、チームワークで調理を行います。『典座教訓』の後半にも、そのようにして調理を進めなさいという記述が実際に出てきます。

そうした現実の中で、面倒なことは他人任せという安易な心を誡め、部下に分担させた作業であっても、典座が責任を持って眼を光らせるべきであると説いているのです。

また同じように、自分が気に入ったことには細かいところまで注意するけれど、イヤなことはほっておくというのではいけません。例えば、「ダシをとるには非常にこだわりを持つけれど、ご飯を炊くのは無関心でひとまかせ」とか、「調理自体は丁寧だが調理場の掃除や片づけがいい加減」というように、あることには積極的だけれどあることは消極的というのではなく、全てを等しく懸命に行いなさいと説かれています。これは『典座教訓』の一番最後に記されている「大心」にも通じる教えです。

そのようにして、調理の全てに誠意をもって取り組めば、自然に「三徳」と「六味」がついてくるというのです。それに関しては次回解説致します。

記事が気に入ったら是非SNSでアクションをお願いします☆

あわせて読みたい

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です