第8回 三徳六味

 前回の解説の続きです。

 『禅苑清規』の引用である、「六味精しからず、三徳給らざるは、典座の衆に奉する所以に非ず」の部分は、『禅苑清規』中の「亀鏡文」に記されています。

修行道場の各役職が、どんな目的のために設けられているかが、「衆僧を荷負す、故に監院あり、衆僧を調和す、故に維那あり・・・」というようにズラリと列記され、続いてその部分に対応して「衆を容れるの量、寛からず、衆を愛するの心厚からざるは、監院の衆を護るゆえんに非ず、修行の者安からず敗群の者去らざるは、維那の衆を悦ばしむるゆえんにあらず。・・・」

(意訳・ 修行僧が安心して修行に励むことができるよう、一切の責任を負うのが監院の職務である。修行僧どうしがもめ事をおこしたりケンカをしたりしないよう、和を大切にするようにとりはからうのが維那の職務である。・・・したがって、修行僧に対して寛大な心を持たず、また修行僧を愛する心が乏しいようでは、監院が修行僧を護ることはできない。また、修行僧たちが安心して修行にうちこむことができず、また規則を破り、皆と仲良くやっていけないような粗暴な者に対して充分な指導をせず、道場にふさわしくない者がいすわってしまい他に迷惑をかけるようでは、修行僧に法のよろこびを与えるために導く役である維那としては失格である。)

というように、定義→悪い例 という形で各役位についての注意点が記されているのです。

典座に関しては、『典座教訓』の冒頭部分にも引用されている

「衆僧を供養す、ゆえに典座あり」という部分に、上記の「六味精しからず、三徳給らざるは、典座の衆に奉する所以に非ず」(六味に精通せず、三徳も備えていないようでは、修行僧に尊い食事を供養する役位である典座は失格である)が対応しているわけです。

悪い例を逆説的に示している文体で書かれていますが、言い方をわかりやすく変えれば、

「典座は六味精しく、三徳給るべし」となるでしょう。

では典座が精通し、兼ね備えていなければならないとされる「六味」「三徳」とは何なのかについて解説します。

六味とは、「苦い」、「酸っぱい」、「甘い」、「辛い」、「しょっぱい」、「淡い」の六味です。日本食では、「五味」(ごみ)を調理の基本とし、五つの味を効果的に組み合わせて献立を立てますが、精進料理ではそこに「淡い→淡味」を加えて六味とします。この語句の解釈を間違えて、精進料理は「淡い味」つまり「薄味」のもの、という誤解をする方が多いのですが、それは大きなまちがいで、「淡味」とは単純な薄味ではなく、「素材そのものの持ち味を生かす味つけ」のことを指すのです。

もちろん、そのために薄味にすることも当然ながらあるわけですが、逆に持ち味を生かすために濃い味にすることもあるのです。サッと火を通すだけのこともあれば、何時間もかけてじっくり煮込むこともあります。同じ大根でも、その状態によって最もふさわしい調理の仕方は変わるのです。サッパリした味、濃厚な味、複雑な味、単純な味、どれがその食材に最もふさわしいかを見抜かなくてはいけません。

素材の持ち味を生かすためにはどう調理すれば一番よいか、という心配りの結果生まれるのが「淡味」であり、これこそ精進料理で一番重要なポイントといっても良いのです。

すなわち、「苦、酢、甘、辛、塩」の五つの味を自由自在にあやつり、その結果素材そのもののもち味を生かした「淡味」を引き出すことができてこそ真の典座である、ということになります。大切な食材をあずかって調理をする以上、味付けに失敗して食材を無駄にしてしまうようでは困るわけで、それが典座たる条件にあげられているのは当然のことでありましょう。

そして、調理中の態度、およびできあがった料理には、「軽軟」(きょうなん・軽くて柔らかい)  「浄潔」(じょうけつ・清潔) 「如法」(にょほう・作法やしきたり、戒律に反しない) の「三徳」があてはまらなくてはなりません。

「軽軟」については、単に歯ごたえが柔らかいとか食材が軽いとかいう単純な意味ではありません。ドロドロコッテリしすぎて食べるのに苦労し、胃腸に負担をかけるような料理ではなく、口当たりが良くあっさりしていて食欲が進むような料理のことです。一言で言い換えれば「体にやさしい」といったところでしょうか。また、精神的な意味からも、自己主張しすぎず、飾り立てられて、料理がどうだ!と威張っているような威圧感を与える料理ではなく、まごころが尽くされながらも謙虚な食事という意味も含まれていると思います。

「浄潔」については、清潔で浄らかな料理という意味です。食べて健康を害するような、不潔な料理では困るわけで、衛生面を重視した調理が求められます。はるか昔から、台所の衛生が重視されてきたことがわかります。今も昔も、良い調理はまず掃除と整理整頓から。そして、単に調理過程での清潔さ、できあがった料理の清潔さももちろんのことながら、作る者の気持ちや心までもが清浄で潔くなければなりません。

「如法」については、仏法や清規の定めに反しない、正しい調理ということです。

仏法にのっとって精一杯調理を行えば、自然と「六味」と「三徳」が備わるものである、と説かれています。なおこれらを総称して「三徳六味」といい、昼食の際の唱えごととして「さんてるみ」と発音し唱えています。

ちなみに、『禅苑清規』の「亀鏡文」には、監院や維那、典座など役位についての心構えが説かれた上述の箇所に続いて、こんどは修行僧のあるべき姿も記されていることを忘れてはなりません。

「もしそれ僧衆、・・・意に王法を軽んじて叢林を顧わざるは、監院に報ゆるゆえんに非ず、上下和せず闘諍堅固なるは、維那に報ゆるゆえんに非ず、美膳を貪婪し麁?を毀?するは、典座に報ゆるゆえんにあらず。」

(修行僧たちは、このように誠心誠意仏法のためにつとめてくださる役位の僧たちに感謝報恩するつもりで、修行に励まなくてはならない。・・・仏法を軽んじ、修行道場全体のことを考えない者は、監院の法愛に報いることはできない。先輩後輩が仲違いし、ケンカばかりしているようでは、維那の指導に報いることはできない。美食ばかりのぞんで粗末な食事を軽視するようでは、典座のまごころに報えることはできない。)

指導する側と、指導を受ける修行僧の気持ちが互いに通じ合ってこそ、すばらしい道場が成り立つのです。教える側だけが頑張ってもダメだし、教わる側にもそれなりの態度が求められるのです。昨今の教育問題にも十分通じる教えだと思うのですがいかがでしょうか。

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Posted by 管理主宰者・典座和尚